サクラスターオー列伝~消えた流れ星~
『代打屋・東』
当時の東騎手の騎手としての位置づけは、ある程度名前を知られた中堅騎手というあたりで、1981年には有馬記念にアンバーシャダイで臨み、見事に制覇した実績もあった。
しかし、そんな東騎手にマスコミから与えられたあだ名は、「代打屋」というものだった。東騎手は長らく境厩舎の所属騎手だったが、境厩舎はもともと全氏が率いる「サクラ軍団」との結びつきが強かった。そして、境厩舎の期待馬はほとんど「サクラ軍団」だったため、これらの馬には東騎手ではなく、全氏に息子のようにかわいがられていた小島騎手が騎乗するのが当たり前のようになっていた。若手騎手がいい馬に乗る場合、それは自分の所属厩舎の馬・・・というのが当時の競馬界の常識だったにもかかわらず、東騎手は、境厩舎の最高の馬には決して乗ることができなかった。
そんな東騎手が名前を上げたのは、主戦騎手が騎乗できない馬への「代打」としての騎乗だった。主戦騎手が決まっている馬でも、その騎手が他の競馬場へ遠征していたり、同じレースに出走する別の馬と依頼がかち合ったりして騎乗できないレースは、当時の番組やシステムであっても、どうしても出てくる。そんな時に「1戦限り」という約束でされる騎乗依頼を、競馬界では「代打」と俗称する。
東騎手に集まる他厩舎からの依頼は、その多くが「代打」の依頼であり、東騎手の最高の殊勲とされる81年の有馬記念も「代打」によるものだった。この時アンバーシャダイを送り出す二本柳俊夫厩舎は、このレースにホウヨウボーイを、アンバーシャダイと並ぶ双璧・・・というよりは他に並ぶものなき大本命として送り出していた。
二本柳厩舎では、所属馬のレースには所属騎手である加藤和宏騎手を乗せるのが常だった。しかし、2頭出しではどちらかを加藤騎手以外の手に委ねざるを得ない。そこで白羽の矢が立ったのが、東騎手だった。この日が引退レースとなるホウヨウボーイにどうしても勝たせたかった二本柳師は、加藤騎手をホウヨウボーイ、東騎手をアンバーシャダイへと配して大一番に臨んだ。
ところが、その結果は、東騎手のアンバーシャダイが、加藤騎手のホウヨウボーイ以下をまとめて下してしまった。ホウヨウボーイを勝たせたかった二本柳師は、思いもしない結果に言葉を失い、凱旋してきた東騎手に言葉をかけることさえ忘れていたという逸話が残っている。
ホウヨウボーイはそのレースを最後に引退したが、その後のアンバーシャダイは加藤騎手とのコンビに戻って天皇賞・春を勝った。有馬記念の後、東騎手にアンバーシャダイへの騎乗の機会を与えられることはなかった。「代打」であっても、予想外にいい結果を残した場合はそのまま主戦騎手になることもあるが、東騎手の場合、結果を残しても、そのまま主戦騎手の地位を得る機会は多くなかった。一流騎手に「代打」を頼んで結果を残せば、そのまま主戦騎手にしなければ失礼にあたる。だが、東騎手ならば「代打」が多いから、「1度きり」の約束も承知してくれ、後腐れとなる問題も起こさない・・・。東騎手の「代打屋」というあだ名には、そんな響きもこめられていた。
『熱い季節の始まり』
東騎手の師匠である境師は、本当は東騎手の騎手としての手腕を高く評価していた。後になって境師は、自分が育てた何人もの騎手たちの騎乗技術を比較した場合、東騎手が1番手であり、小島騎手と比べても勝っていた、としている。それなのに、厩舎の都合で東騎手に一流馬への騎乗機会をあまり与えてやれなかったことを、境師はいつも申し訳なく思っていた。東騎手は、この年に境厩舎を離れてフリーになっているが、その時境師は
「いいか、体を惜しむなよ。フリーになったら、体を惜しんだらいい仕事ができなくなる。もしダメになったら、またうちに戻ってこいよな・・・」
と言って彼を送り出した。それは、自厩舎の所属騎手のままでは将来も含めて一流馬への騎乗機会を与えられないことを見越した境師の、弟子へのせめてもの思いやりだったのかもしれない。
そんなところへ降ってわいたのが、「サクラスターオー乗り替わり事件」だった。平井師から相談を受けた境師の頭に真っ先に浮かんできたのが、これまで実力の割に騎乗機会に恵まれてこなかった東騎手だった。
境師にしてみれば、サクラスターオーはもとをただせば境厩舎に所属するはずだったものを、平井厩舎の開業祝いとして平井厩舎に譲ったという経緯がある。全氏から直接平井厩舎へ馬を譲るよう頼まれたのに、望みの無い馬を形式だけ譲って済ませるなどというのは非礼にあたる。サクラスターオーも、境師が期待馬の1頭と目していた逸材である。現時点では3戦1勝の条件馬にすぎないにしても、今後クラシック路線に乗ってくる・・・あるいはそれ以上に化けてくる可能性があることは、境師自身がよく知っていた。
「これは、不遇の東を男にしてやれるチャンスかもしれない・・・」
境師の推薦により、弥生賞でサクラスターオーに騎乗するのは東騎手に決まった。東騎手がサクラスターオーへの騎乗依頼を受けたのは弥生賞の2日前のことで、調整ルームにいたところに突然現れた平井師から
「前日追いに乗ってくれ!」
と言われたのを覚えているという。フリーになったばかりの東騎手にとっても予想外の依頼であり、それが彼らの最も熱い季節の始まりだった。
『雪がとける頃に』
1987年クラシック戦線の幕開けを告げる弥生賞(Gll)は、残雪が消えぬ中山競馬場で開催された。例年は春のクラシックに直結するトライアルとされるこのレースも、この年は前年の3歳王者メリーナイスやゴールドシチーらの参戦がなく、ホクトヘリオス、マイネルダビデといった馬たちが有力視されていた。
サクラスターオーは、厚いとは言いがたい出走馬たちの中で、単勝1890円の6番人気にとどまった。もっとも、3戦1勝で重賞初挑戦という彼の立場を考えれば、それもやむをえないというべきだろう。
ただ、東騎手は、直前追いで乗ったばかりのサクラスターオーについて、
「敏捷性のある馬だな・・・」
と感じていた。感じ取った長所を活かすために、末脚を生かす乗り方をしようと決めていた東騎手は、馬群の真ん中から緩やかな競馬を進めた。
レース中には、前との差が大きくなって
「ちょっとダメかな・・・」
とも思ったという東騎手だったが、サクラスターオーが直線に入ってから見せた鋭い末脚は、東騎手が思っていたよりはるかに強烈なものだった。サクラスターオーは、馬群を抜けて逃げるビュウーコウをきっちりとらえ、追いすがるマイネルダビデをも抑えきった。1勝馬のはずのサクラスターオーが、初めての重賞で見せた思わぬ強い競馬に、人々は震撼した。
「膝がガクガクして止まらなかった」
平井厩舎を開業してから1年で調教師としての重賞初制覇を果たした平井師は、当時をそう振り返る。東騎手も、あきらめかけた道中から、予想以上の末脚を繰り出して勝ったサクラスターオーの競馬に
「この馬は、強い。クラシックを取れる器だ!」
と確信したという。だからこそ、勝ったことで「次」もこの馬に乗れることが、うれしかった。
この日、サクラスターオーが記録した勝ち時計は、弥生賞の距離が2000mになってからでは、84年のシンボリルドルフが記録した2分1秒7に次ぐ好タイムとなる2分2秒1という優秀なもので、皐月賞を前に
「サクラスターオーは強い・・・」
という声は競馬界に急速に広がっていった。