サクラスターオー列伝~消えた流れ星~
『晩秋の淀に立つ』
1987年11月8日、サクラスターオーは晩秋の京都競馬場にその姿を現した。当日の朝も脚には軽いむくみがあったというが、急遽呼んだ蹄鉄師に削蹄してもらったところ、そのむくみも消えた。
「秋霜烈日、菊花の路・・・」
競馬を愛する詩人・志摩直人がそう詠んだ秋晴れの午後、クラシックの最後の一冠に間に合ったことに対するへのサクラスターオー陣営の感慨は、おそらく18頭の出走馬の中でも随一だったことだろう。
しかし、ファンが二冠の期待を寄せていたのは、長い苦難の時を経てようやく戦場にたどり着いた皐月賞馬ではなく、ダービー馬の方だった。18頭の出走馬の中で最も大きな支持を集めたダービー馬メリーナイスは、サクラスターオー不在のダービーを6馬身差で圧勝し、さらに秋の初戦となるセントライト記念も快勝して順調な臨戦過程を歩んできた。淀のターフは、メリーナイスによる二冠達成の予感に満ちていた。ダービー馬に対する信頼の厚さは、単勝220円というオッズが何よりも雄弁に物語っていた。
その一方で、ファンが皐月賞馬に寄せる評価は、懐疑的・・・というよりは、むしろ否定的なものだった。
「ステップレースも使わずに菊花賞を使うなんて、無茶だ」
世間の大半を占めるそんな空気を物語るように、サクラスターオーの単勝は1490円、実に9番人気だった。
「なんでこんなに人気薄なんだ!今に見ていろ・・・」
そう腹を立てていたのは、東騎手である。彼は、サクラスターオーにまたがった瞬間、その背中から伝わってきた気迫に抑えきれない昂ぶりを感じていた。
「こいつは、これからレースで走ることを知っているようだ・・・」
東騎手は、思わず平井師に
「これなら、勝負できますよ」
と言って、
「余計なことは考えるな、無事に回ってくることだけを考えろ」
とたしなめられた。しかし、東騎手が感じ取った予感は、馬場入りの時には確信へと変わっていた。
「この馬は、『競馬』を覚えている・・・」
馬の状態は、皐月賞の時に負けない・・・否、それ以上だった。不安のある脚にも関わらず、毎日乗り込まれたサクラスターオーからは、絶頂にある一流馬のみが発する独特の雰囲気と気迫がはっきりと立ち上っていた。これならば、半年ぶりのレースでも力は出し切れる。
「故障明けの俺の馬に負けたら、恥ずかしいぞ・・・」
自信をつけた東騎手は、メリーナイスに騎乗していた根本康広騎手に、そう軽口を叩いた。しかし、1番人気を背負って極度の緊張状態にあった根本騎手からの返事はなかった。根本騎手も、メリーナイス以前に平場のGlを勝ったのは、ギャロップダイナとともにシンボリルドルフを差し切る番狂わせを演じた85年天皇賞・秋(Gl)だけであり、クラシックという大舞台に大本命で臨むという重圧は、まったく経験したことがなかった。東騎手は、根本騎手がまともな精神状態ではないことを見透かしていた。
『輝く恒星』
やがて、京都競馬場にファンファーレが鳴り響く。ゲートに入れられた出走馬たちは、スタートとともに軽快に飛び出した。18頭の戦いが、始まった。
有力馬たちの中で最も目立つスタートを切ったのは、ダービー馬のメリーナイスだった。好スタートを切ったメリーナイスと根本騎手は、リワードランキングがレースを引っ張る中、3、4番手の好位置から先頭をうかがう様子で競馬を進めていた。大外を気にした根本騎手は、スタートに全身全霊を傾けており、その成果が実った形である。
・・・だが、この時の好スタートが仇となり、メリーナイスは終始かかり気味となってしまった。ダービー馬を統制し切れない根本騎手を冷静に見つめていたのは、馬群の真ん中あたりに陣取ったサクラスターオーの東騎手だった。
「引っかかっているのがよく分かった。この分なら、最後まで持たないぞ・・・」
東騎手は、最大の敵と見ていたダービー馬に見切りをつけた。あとは、サクラスターオーの競馬をするだけである。
サクラスターオーは半年ぶりの実戦ということで、3000mの道中での折り合いが、メリーナイスよりはるかに心配されていた。しかし、この日のサクラスターオーは、ブランクなどなかったかのように折り合っている。
「いける!」
東騎手の闘志は燃え上がった。サクラスターオーは、他の光を浴びて輝く惑星ではない、自ら光を発して輝く恒星だ・・・。
「万一の時には、馬を止めてもかまわない・・・」
平井師からはそう言われていたが、サクラスターオーから伝わってくる確かな感覚の前に、そんな想定は頭から消えていた。
『王者の風』
競馬が動いたのは、向こう正面でのことだった。今度はレオテンザンが先頭に立ったかと思いきや、かかったメリーナイスが外を衝いて進出し、馬群が激しく揺れる。
他の馬たちが動いても、サクラスターオーは動かなかった。レースでは2000mまでしか走ったことのないサクラスターオーにとって、早い仕掛けはただちにらスタミナ切れへと直結する。だが、馬は人の意思を汲み取って、ひたすら勝負の時を待っていた。
彼が動いたのは、第3コーナーを回って、下り坂に入ってからだった。
「自分からハミを取って動いた。もの凄い手応えだった・・・」
東騎手は、後にそう振り返る。他の馬たちが余力をなくして後退していくレースの終盤を迎え、サクラスターオーは馬なりながらも速度を上げていく。
第4コーナーでのサクラスターオーの前には、京都新聞杯馬レオテンザン、ダービー2着馬サニースワロー、そしてダービー馬のメリーナイスがまだ残っていた。しかし、この位置につけた段階で、東騎手の勝利の予感は、はっきりと形を持ちつつあった。スムーズな競馬ができた。脚色もいい。他の馬たちは、もう力尽きようとしている。
東騎手は、サクラスターオーにゴーサインを出した。これからどこまで伸びるのか。東騎手の手応えさえ正しければ、結果はおのずからついてくるはずだ・・・。