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サクラスターオー列伝~消えた流れ星~

『さよなら、ふるさと』

 藤原氏の苦労の甲斐あって、サクラスターオーは順調に成長し、やがて美浦の平井雄二厩舎へと入厩することになった。サクラスターオーは、「育ての親」ともいうべきスターロッチに見送られ、競走馬としての生活をスタートさせることになったのである。

 ところで、サクラスターオーは、「サクラ軍団」の馬としてデビューすることが決まっていた。サクラ軍団とその総帥の全演植氏といえば、境勝太郎厩舎との厚い信頼関係が有名である。サクラ軍団の有力馬のほとんどが境厩舎に入厩してきた中で、サクラスターオーが平井厩舎に所属したのは異例と言える。

 サクラスターオーも、最初は境厩舎に入厩することが決まっていた。しかし、その頃に騎手からの引退を決め、ステッキを置いて調教師として厩舎を持つことになったのが平井師だった。全氏はそれまで障害レースを中心に平井騎手に騎乗を依頼していた縁があり、境師に対しても、平井厩舎の「開業祝い」として、入厩を予定していた馬のうち何頭かを譲るよう求めた、というのが真相である。境師も、大馬主であり、さらには大恩人であると自ら日頃から公言していた全師から直接頼まれた以上、ヘンな馬を譲るわけにはいかない。こうして境師から平井師に譲られた期待馬たちの中に、サクラスターオーがいた。

 ところで、サクラスターオーの母親代わりとなったスターロッチは、サクラスターオーが競走馬になったのを見届けて安心したかのように、1986年8月に逝った。平均的な寿命は20年といわれるサラブレッドだが、スターロッチは実に29歳(旧年齢)での大往生だった。

『雌伏』

 開業したばかりの平井厩舎の期待馬として戦いの舞台に立ったサクラスターオーは、やがて「サクラ軍団」の主戦騎手である小島太騎手を主戦騎手に迎え、競馬場にデビューした。デビュー戦こそ2着に終わったサクラスターオーだったが、中1週で臨んだ折り返しの新馬戦で、見事に初勝利を挙げた。3歳10月で初勝利を挙げたサクラスターオーにとって、翌年のクラシックはもちろん、順調にいけば、朝日杯3歳S(Gl)への出走も可能になるはずだった。

 しかし、サクラスターオーは、競走馬として高い資質を期待される一方で、深刻な欠陥を抱えていた。彼の前脚は、極端に外向していたのである。卓越した能力は、生まれながらに奇形を抱えた彼自身の脚に、大きな負担を与えていた。

 サクラスターオーは、初勝利の後に脚部不安を発症し、一時戦列を離れることになった。

「この馬が本当に良くなるのは、古馬になってからですね」

 脚の不安ゆえに、サクラスターオーについて、平井師は関係者とそんなことを話し合っていた。

 サクラスターオーが休養している間に3歳戦線は本格化し、東の3歳王者決定戦・朝日杯3歳S(Gl)ではメリーナイス、西の3歳王者決定戦・阪神3歳S(Gl)ではゴールドシチーがそれぞれ栄冠を手にした。そんな中で、サクラスターオーは静かに雌伏の時を過ごした。通算2戦1勝、折り返しの新馬戦を勝ち上がったばかりの彼が翌年のクラシック戦線の主役になることを、まだ誰も知らない。

『静かな炎』

 脚部不安による休養を経たサクラスターオーは、87年2月、寒梅賞(400万下)から復帰することになった。これは、初勝利を挙げた折り返しの新馬戦から数えて、実に4ヶ月ぶりの実戦となる。

 平井師は、復帰戦を万全の状態で迎えるべく、連日サクラスターオーに対し、他の馬のほぼ倍の量となる乗り込みを課していた。それだけサクラスターオーに期待していた。しかし、一般のファンの目から見たサクラスターオーは通算2戦1勝、しかも初勝利の後に4ヶ月間も休んでいた馬にすぎない。そんな馬が注目を集めるはずもなく、復帰戦での彼は、8番人気にとどまった。

 そして、この日の結果もまた、人気より上にきたとはいえ、掲示板に載るのがやっとの5着に終わった。この日ウィナーズサークルに立ったのは、シンボリ牧場が送り出す大器との呼び声高いマティリアルだった。人々の注目と支持がサクラスターオーではなくマティリアルに集まるようになったのも、むしろ当然であろう。

 ただ、サクラスターオーに騎乗した小島騎手は、この日のレースから確かな手ごたえをつかんでいた。小島騎手といえば、「サクラ軍団」の主戦騎手であり、サクラスターオーの父サクラショウリの主戦騎手として日本ダービーを制したこともある。この時の彼は、自らの手で父子二代ダービー制覇を果たすという栄光を夢想したという。果たして小島騎手は、敗北の中から何を感じ取ったのだろうか。

 実際には、小島騎手の夢がその後現実になることはなかった。寒梅賞で5着に敗れたサクラスターオーは、なんとかクラシック戦線へと乗るべく、皐月賞トライアルの弥生賞(Gll)に格上挑戦することになった。皐月賞への優先出走権が3着までとされている現在と異なり、当時の弥生賞は5着までに入れば皐月賞への優先出走権を手にすることができる。・・・サクラスターオーの運命を変える騒動が勃発したのは、その時のことだった。

『サクラスターオー乗り替わり事件』

 弥生賞でのサクラスターオーの鞍上は、寒梅賞に引き続き、小島騎手が務める予定だったとされている。サクラスターオーを管理する平井師自身が、小島騎手から他の騎手に乗り替わるという事態の可能性を、そもそも想定していなかった。

 ところが、その情勢を一変させたのは、弥生賞の出馬投票の前日に平井厩舎へとかかってきた1本の電話だった。

「スターオーから太を降ろせ」

 それは「サクラ軍団」の総帥であり、サクラスターオーの馬主である全演植氏からの電話だった。

 平井師は、予想外のオーナー指令に面食らった。というより、恐慌に陥った。乗り馬がかち合ったり、よそへの遠征と重なるといった事情もないのに、「サクラ軍団」の有力馬に小島騎手が乗らないということは、平井師はそれまで聞いたこともなかった。

 この時の乗り替わりの理由は、当時の小島騎手が

「サクラの馬でしか勝てない」

と言われていた競馬界における自らへの評価に苛立ち、そうした声を見返そうとして全氏以外の馬主との関係づくりに熱心になったことについて、全氏との関係を疎かにしているととった全氏が腹を立てたのだと言われている。また、小島騎手が当時関係を深めていたある馬主の悪い評判を聞いた全氏が、小島騎手を心配してその馬主との関係を考え直すよう忠告したにもかかわらず、小島騎手がそれをまったく聞き入れなかったため、という説もある。

 いずれにしろ、小島騎手が騎乗するはずだったサクラスターオーの鞍上は、まったくの白紙になった。困ったのは平井師である。こんなことになるとは夢にも思わなかった平井師は、小島騎手に代わる騎手など、まったく用意していなかった。調教師になって日が浅い平井師は、こんな時にすぐに引っ張ってこれるような子飼いの騎手も抱えていなかった。

 そんな平井師が頼ったのが、かつて開業時にサクラスターオーを譲ってもらった境勝太郎師だった。この時境師が平井師に推薦したのが、サクラスターオーの終生のパートナーとなる東信二騎手だった。

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