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サクラスターオー列伝~消えた流れ星~

『渇望せしもの』

 サクラスターオー陣営がダービーに賭ける思いは、並々ならぬものだった。そのことは、彼らのホースマンとしての人生にも関係があるだろう。

 平井師が調教師になる前に騎手だったことは、既に述べた。しかし、騎手としての平井師は、一般から注目を浴びる存在だったとは言い難い。彼が騎手時代に挙げた117勝のうち、実に106勝は障害で稼いだものである。また、彼の騎手としての「ある技量」は競馬界では有名だったが、それは「調教で乗った時の仕上げの腕前」というものだった。

 「障害専門騎手」と「調教名人」・・・そんな評価の下で生きてきた平井師だけに、一度は光の当たる舞台に立ってみたい、という思いも強かった。昼頃に行われる障害レースの時間帯を前に、ファンが食事のために移動する光景は、競馬場で現在も当たり前のように繰り広げられる。まるで障害レースの時間帯は、「平場のレースの合間」であるかのように・・・。また、本番で他の騎手が乗ると分かっている馬を渾身をかけて仕上げ、その馬が自分以外の騎手を乗せて見事に好走し、ファンの喝采を受ける・・・。それらの悲哀のひとつひとつが、平井師の渇望となっていた。

 また、東騎手もそれまで「代打屋」として生きてきた。結果を残しても「1度きり」。アンバーシャダイで有馬記念を勝った後も、その後二度とアンバーシャダイへの騎乗依頼の声はかからなかった。「代打屋・東」の歴史の中で、そんな例は枚挙に暇がない。

 それでも彼は、「1度きり」にすべてを賭けて生きてきた。「1度きり」で結果を残しても、その馬に次も乗れることはない。しかし、その「1度きり」で結果を残せなければ、その馬どころか、その調教師や馬主から、二度と依頼をもらえなくなるかもしれないのである。もともと競馬とは無縁の家庭で生まれ育ち、身ひとつで飛び込んできた男がこの世界で生きていくためには、そんな悲哀や理不尽を受け入れながら生きていくしかなかった。

 そんな彼らがついに手にしたのが、サクラスターオーという宝石だった。

「サラブレッドの頂点は、皐月賞ではなく、やっぱりダービー。ダービーを勝ってこそ、自分にこの馬を預けてくれた人たちへの恩返しになる」

とは、平井師の弁である。派手さとは無縁のところで生きてきた彼らが、日本競馬の最高峰に向けてどれほど燃えていたかは、察するに余りある。

『遠ざかる歓声』

 しかし、彼らの想いは、残酷な運命によって踏みにじられた。皐月賞直後はなんともなかったサクラスターオーだったが、調教を再開してから間もなく脚部不安を発症した。

「今から考えてみると、もう少しゆっくり休ませてあげればよかったと思うけれど、ライバルたちがダービーに向けて次々と調教を始めているのを見て、焦ってしまった・・・」

 東騎手は、反省を込めてそう語っている。彼が「追われる者の弱み」という不安の中で、疲れが十分取れていないにも関わらず、再び厳しいトレーニングをつけられるようになったサクラスターオーの脚は、限界に達していた。調べてみると、もともと外向していた両前脚が繋靭帯炎を発症し、腫れあがっていた。サクラスターオーが持って生まれたあまりに優れた能力は、彼自身の肉体の最も弱いところに大きな負担としてのしかかっていた。

 サクラスターオーは、ダービーを断念することになった。彼のダービーは、始まることなく終わりを告げた。

「『レバ・タラ』の話になるけれど、スターオーがダービーに出ていたとしたら、必ず好勝負をしてくれたと思います。だからこそ、悔しくて悔しくてしょうがなかった・・・」

 平井師は、そう悔しがる。サクラスターオーが戦線を離脱したために皐月賞馬不在のまま行われた日本ダービーは、メリーナイスが6馬身差の圧勝を遂げた。メリーナイスといえば、皐月賞ではサクラスターオーの影を踏むことすらできなかった馬である。それだけに、平井師、東騎手らの無念は募った。彼らの気持ちは、果たして

「スターオーをダービーに出したかった・・・」

というものだったのか、それとも

「スターオーでダービーに出たかった・・・」

というものだったのだろうか。仮にそれが後者であったとしても、それは何ら責められるべきことではない。ただ、最高の舞台を渇望した平井師、東騎手らの心の叫びゆえに生じた焦りは、結果的に彼ら自身に重い代償を支払わせることとなってしまった。

『秋風とともに』

 ダービーを断念したサクラスターオーのために、平井師は、騎手時代に自分がよく利用していた山梨県・下部の湯へ車を走らせ、お湯を汲んできてはサクラスターオーの脚に漬けてみた。このお湯は、古くは武田信玄の隠し湯とされ、武田信玄をはじめとする多くの名将、そして無敵と呼ばれた甲州騎馬軍団の駿馬たちの脚の傷を癒したとされる名湯である。

 すると、果たして名湯の効能か、サクラスターオーの脚の腫れは少しずつ引いていった。次いで平井師は、サクラスターオーを「馬の温泉」として有名な福島県・いわき温泉へと連れて行った。

 温泉でのサクラスターオーは、脚に負担をかけないように、プールでのトレーニングを続けたという。彼は、水に入ることをおそれることもなかったし、他の馬が30秒から40秒かけて泳ぐ距離を、約25秒で泳いだ。さらに、運動後の心拍数も、並の馬が30以上なのに、サクラスターオーは26から28前後だったという。係員たちは、

「度胸も、運動能力も、心肺能力もたいしたものだ」

とサクラスターオーの資質に驚き、さすが皐月賞馬と感心させられるばかりだった。

 ただ、肝心のサクラスターオーの前脚は、なかなか良くならなかった。激走によって脚にたまった負担は、それほどに重かった。

 夏が半ばを過ぎ、ダービー後に放牧に出たライバルたちが秋に備えて厩舎に戻る時期になっても、サクラスターオーの消息は聞こえてこなかった。やがて夏が終わり、季節は秋を迎えた。サクラスターオーが美浦へと戻ってきたのは9月中旬・・・菊花賞トライアルが始まるころだった。

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