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ダイイチルビー列伝~女は華、男は嵐~

『誇りと血を受け継いで』

 1番人気のケイエスミラクルが動き始めたことで、ただでさえ激しかったレースの流れは、さらなる激流となってすべての出走馬たちを呑みこんでいった。外へ持ち出す者、内を衝く者。それぞれが己の道のみを栄光へ続く道と信じることで戦いは最終局面へと入っていった。

 河内騎手は、ダイイチルビーとともに内を衝く道を選んだ。河内騎手は、今は馬群になっていても、前半から極限的なレースを進めた先行馬たちが、最後までには必ずばらけると読んでいた。そして、この日のダイイチルビーならば、前にほんの少しでも空間ができれば、そこに馬体をねじ込んで一気に突き抜けることができる。それは、願望ではなく確信だった。

 すると、河内騎手がにらんだとおり、前の馬群はばらけ、そしてダイイチルビーは突き抜けた。ダイイチルビーの前方では、1番人気のケイエスミラクルが突如バランスを崩し、瞬く間に後方へと消えていった。直線のトップスピードに入るところで左後脚の粉砕骨折を発症した4歳の若き快速馬は、あまりに激しすぎた極限のレースに耐えることができず、その非凡なスピードと才能を完全に花開かせることのないまま、ゴールではなく彼岸の世界へと旅立ってしまった。

 だが、そんな期待の若駒の命を奪うほどに激しいレースの中でも、ダイイチルビーはひるまなかった。牝祖マイリーに遡り、何代にもわたる祖先たちの活躍でその名を高められ、祖母イットーと母ハギノトップレディによってついに確立された「華麗なる一族」の血は、より強い相手とより激しいレースを戦い抜いてきたことで、いつの間にか速さだけでなく強さまで兼ね備えるに至ったのである。むしろ、そんな輝ける血の継承者たるダイイチルビーの真骨頂は、これからだった。

『女は華、男は嵐』

 ダイイチルビーは、中山の坂で他馬が力尽きるのを尻目に、たちまち馬群を置き去りにしていった。1馬身、2馬身、3馬身・・・だが、ダイイチルビーの脚は止まることを知らない。容赦なく後続を突き放していくその姿は、まるで前方にまだ逃げ馬が残っているかのようだった。・・・あるいは彼女の瞳にだけは、中山でも逃げ粘る宿敵ダイタクヘリオスの姿が映っていたのかもしれない。この1年間短距離戦線をともに戦い抜き、負ける時はこの上なく情けなく沈んでいくくせに、大切なレースになるととてつもない底力を発揮し、彼女の高松宮杯母子3代制覇、マイルGl春秋制覇の夢をいとも簡単に打ち砕いた、最大にして最高のライバル。この日彼女が戦っていたのは、中山競馬場にいるはずもないダイタクヘリオスだった、と考えてみるのも一興である。

 ダイイチルビーがゴール板の前を駆け抜けた時、2番手のナルシスノワールとは実に4馬身差が開いていた。1分7秒6の勝ちタイムも、前年のバンブーメモリーが記録したレースレコードを0秒2上回り、中山芝1200mコースのタイレコードという極めて優秀なものだった。1頭だけ次元の違う競馬で他を寄せつけなかった、というのがこのレースでのダイイチルビーだった。そもそもスプリント戦は、走る距離が短い分、大きな着差はつきにくい。そこで彼女がつけた4馬身差という着差は、その後94年のサクラバクシンオー、04年のカルストンライトオが同じ4馬身差で勝ったとはいえ、今なお破られない日本の芝スプリントGlにおける最大着差として記録に残っている。

 レースの後、伊藤師は

「文句なしの競馬ができましたね」

とご満悦で、河内騎手もまた

「この距離では、一番強い馬です」

と断言した。このコメントがどの馬を意識したものであるかは、明らかである。

 この日の勝利によって、ダイイチルビーは1991年の中央競馬の3つの短距離Glのうち2つを制したことになる。これで、ダイタクヘリオスと激しく争っていた1991年の最優秀短距離馬の地位も、ほぼ確定的なものとした。・・・だが、そんな彼女は、果たして瞳の中のダイタクヘリオスをとらえることができたのだろうか。それは、彼女のみが知る秘密であろう。

『輝ける時の終わり』

 ダイイチルビーは、安田記念に続くスプリンターズS制覇によって祖母、母に続く希代の名牝としての血の系譜を、見事に証明した。また、それによって、マックスビューティが守っていた歴代賞金女王の地位も手に入れた。さらにその後、JRA賞でも最優秀古牝馬、最優秀短距離馬に選出されたダイイチルビーには、功成り名遂げて現役を引退する、という選択肢も考えられたはずである。だが、伊藤師はダイイチルビーにもう1年、現役生活を続けさせることを発表した。

 無論、現役続行の決断は、伊藤師1人によって下されたものではないだろう。91年を9戦して4勝2着4回3着1回という非常に安定した成績を残したダイイチルビーだけに、翌年の短距離戦線でも相応の成績を残してくれるに違いない、という読みは、決して甘い願望とはいえない。また、彼女には史上初となる安田記念連覇、そしてダイタクヘリオスに阻止された高松宮杯母子3代制覇の夢への再挑戦など、現役生活を続けることで果たすべき目標も、少なくなかったのだから。

 だが、結果が分かった後から振り返ってみるならば、この時の選択は誤りだった。1991年の短距離界を舞台に華麗に咲いた日本競馬の至宝は、スプリンターズSの勝利によって、既に燃え尽きていたのである。

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