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バブルガムフェロー列伝~うたかたの夢~

『喪われた輝きを求めて』

 翌春のバブルガムフェローは、目標を天皇賞・春(Gl)ではなく宝塚記念(Gl)におくことになった。この年の天皇賞・春では、サクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーの古馬三強が死闘を繰り広げる(マヤノトップガンが優勝)が、バブルガムフェローがその中に加わることはなかったのである。

 藤澤師は、この時バブルガムフェローを安田記念(Gl)に挑戦させたい意向を持っていた。しかし、当時の藤澤厩舎には、いまだにGl制覇がなく、かつマイル路線をベストとするタイキブリザードがいた。Gl制覇の最後のチャンスとして安田記念に賭けるタイキブリザードとの「同士討ち」を避けたい・・・そんな判断もあって、バブルガムフェローは安田記念を回避して、鳴尾記念(Gll)から宝塚記念を目指すというローテーションをとることになった。自重を決めた海外遠征だったが、これらのレースの中から、なんとか世界へつながる方向性を見出したかった。

 だが、放牧先の社台ファームから帰ってきたバブルガムフェローを見た藤沢厩舎のスタッフは、

「見るからにガレていて、ショックを受けた」

という。社台ファームが日本で最高の設備を持つ牧場であることには、誰も異議がないだろう。そんな生まれ故郷での休養すら癒せなかったものは、果たして走ることによって生じた肉体の疲労だったのか、それともそれ以外の何か・・・例えば、重過ぎる夢を背負い続けることによって生じた精神の疲弊だったのか。

 藤澤師は、それでもバブルガムフェローに「やり過ぎと言っていいくらい」厳しい調教をかけた。肉体的な疲労は、残っていないはずである。精神的な疲労など、走るため、戦うために生まれたサラブレッドであり、その中でも類まれな才覚を与えられた一流馬であるバブルガムフェローに許される言い訳ではない。ならば、走ることで闘志を取り戻すしかない・・・。

 すると、調教に応えてバブルガムフェローの馬体には張りが戻ってきた。馬体重は思うように戻らなかったが、藤澤師らを

「これなら戦える・・・」

と安堵させる程度の状態には達した。

 それでも、復帰初戦となる鳴尾記念でのバブルガムフェローは、単勝330円の2番人気にとどまった。単勝210円で1番人気に支持されたのは、いくら芝2000mのレースを2連勝中で、前々走では2000mの日本レコードとなる1分57秒5を樹立しているとはいっても、それまでGl勝ちはなく、Gll、Glllを1勝ずつしただけのゼネラリストである。いくら半年ぶりの実戦とはいえ、Gl2勝馬であるバブルガムフェローに対する評価はあまりに低かった。それは、天皇賞・秋までに見えていた未来があまりに壮大だったがゆえに、ジャパンCでの失墜があまりにも残酷な現実となり、崩壊した夢の残骸がバブルガムフェローに呪縛のようにまとわりつく現実を顕著に物語っていた。

 そんな鳴尾記念でのバブルガムフェローは、スタート直後に11番人気のケリソンの福永祐一騎手が落馬するというアクシデントがあったものの、突発事態に動じることなく、好位からの競馬を進めた。そして、直線できっちり馬群を抜け出すと、最後は福永騎手を振り落とした後もなぜか好位の競馬をしていたカラ馬のケリソンとの壮絶な「一騎打ち」に持ち込み、背中に鞍しか乗せていないケリソンとの約50kgの斤量差を跳ね返し、その「攻防」をも制してGl馬の貫禄を見せつけた。

 だが、Gl優勝歴があるのは牝馬のダンスパートナーだけという出走馬の中で、その勝ち方は、時計、着差とも「圧倒的な強さを見せつけた」とまでは言えないものだった。そのレース内容から彼がかつて放っていた輝きを再び見つけ出すことはできなかった。

『戻らぬ威信』

 バブルガムフェローは、何はともあれ鳴尾記念を勝って宝塚記念へと駒を進めることができた。宝塚記念当日、バブルガムフェローの鞍上には天皇賞・秋以来の騎乗となる蛯名騎手の姿があった。主戦騎手の岡部騎手が、この日は藤澤師、オーナーサイド双方からの強い要請によって、気性が激しく「ジョッキー(岡部騎手のこと)でないと乗りこなせない」タイキブリザードに騎乗することになったため、その代役として蛯名騎手が再び呼び戻された形である。

 だが、藤澤師らバブルガムフェロー陣営の人々は、鳴尾記念をひとつ叩いた後、いっこうに上向かないバブルガムフェローの体調に焦りを感じていた。ようやく戦える状態まで戻した鳴尾記念を勝ったことで、一気に上向いていいはずのバブルガムフェローだったが、実際にはその状態での足踏みに入ってしまった。彼らの不安を裏づけるように、朝日杯3歳Sの時が490kg、前年の天皇賞・秋の時は486kgだったバブルガムフェローの馬体重は、大幅に減って周囲を心配させた鳴尾記念の474kgよりさらに落ち、宝塚記念当日は468kgにまでなっていた。鳴尾記念後の

「次はきっちりと戻ってくるはずだよ」

という陣営のコメントを裏切る数字が発表されたことで、馬体の張りが戻っても、絶対的な筋肉の量は足りないのではないか、という懸念は晴れることがなかった。

 藤澤師らの焦燥を感じ取ったかのように、ファンもバブルガムフェローをシビアに見つめていた。1番人気は前走の天皇賞・春で3着だったマーベラスサンデーの230円、2番人気は前走の安田記念で悲願のGl制覇を果たしたタイキブリザードの310円で、バブルガムフェローは彼らに次ぐ単勝3番人気の350円にとどまったのである。この年から国際レースとして外国馬にも開放された宝塚記念だったが、実際に参戦した外国馬は、さしたる実績もなく、前走で挑んだ鳴尾記念も4着だったオーストラリア馬セトステイヤーただ1頭である。Gl馬も、バブルガムフェロー自身を除けばタイキブリザード、ダンスパートナーしかいない。そうした中でのバブルガムフェローの3番人気こそが、偽ることなき彼の「今」そのものであった。

『空費された季節』

 やがてゲートが開き、逃げを打ったのはシーズグレイスだった。彼女が刻むラップは、1000m58秒3という2200mにしては相当に速いペースだった。バブルガムフェローは、2番手を追走する僚馬タイキブリザードとは対照的に、ハイペースに巻き込まれることを避けて中団からの競馬を貫くかに見えた。

 ところが、タイキブリザードがハイペースにも関わらず第3コーナーで果敢に先頭に立つと、蛯名騎手は、それをとらえるために早めに動いた。

「タイキブリザードは、一瞬の切れ味はないが、並んでからは実にしぶとい脚を使う」

 蛯名騎手は、そのことを知っていた。そのタイキブリザードが、早めに先頭に立った。ハイペースとはいえ、否、ハイペースだからこそ、それを承知で早めに動いた岡部騎手とタイキブリザードのしぶとさが恐ろしかった。

 だが、この時蛯名騎手を衝き動かしたのは、バブルガムフェローへの信頼や彼自身の自信ではなく、タイキブリザードへの恐れと、岡部騎手という先達への怯えだった。そんな彼らの仕掛けにしっかりとついてきたのは、さらに後方から競馬を進めるマーベラスサンデーだった。悲願のGl獲りを目指す1番人気は、バブルガムフェローが早めに動いたことで動きやすくなった。武騎手の手が動き、引き絞った弓から矢が放たれるように、マーベラスサンデーの末脚も解き放たれる。

 バブルガムフェローがタイキブリザードに並びかけた時、すぐ外にはマーベラスサンデーが迫っていた。バブルガムフェローがタイキブリザードをかわすのとほぼ同時に、彼はマーベラスサンデーによってかわされた。・・・バブルガムフェローは、マーベラスサンデーにクビ差屈して2着に敗れた。

「調子がよければ、あれでも押し切れたかもしれない。蛯名はブリザードがもう少し粘ると思ったんだろう・・・」

 だが、現実には、極限まで落ちたバブルガムフェローの馬体では、その最後の数完歩を支えることができず、彼は敗れ去った。蛯名騎手との再びのコンビでも完全復活は果たせないまま、バブルガムフェローの5歳の春は終わった。迷走は、いまだに続いていた。

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