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バブルガムフェロー列伝~うたかたの夢~

『再起の誓い』

 バブルガムフェローがいない第56回皐月賞は、バブルガムフェローの代わりに1番人気に支持されると思われたダンスインザダークまでが直前の熱発によって出走を回避したこともあり、2週間前の予想から一転した混戦模様となった。そんな牡馬クラシックの第一関門を制したのは、「SS四天王」の一角と称されながらも弥生賞でダンスインザダークの3着に敗れて評価を落としていたイシノサンデーだった。また、皐月賞に続く日本ダービーでは、皐月賞回避の無念を晴らすように馬群から抜け出したダンスインザダークを、体質の弱さゆえに出世が遅れていた大器フサイチコンコルドが差し切った。だが、これらのレースを見るバブルガムフェロー陣営の人々の思いは共通していた。

「もしバブルが出走できていれば・・・」

 勝てると言い切ることは、現実に勝った馬への失礼にあたるかもしれない。だが、彼らが夢を託した馬が負ける姿は想像できなかった。バブルガムフェロー陣営の人々は、皐月賞を横目に見ながら、それぞれの思いを胸に、秋の雪辱への思いを強めた。

 バブルガムフェローが社台ファームに帰ってきたのは、皐月賞の翌週のことだった。育成時代も手がけた馬の帰還を出迎えることになった社台ファームの担当者は、その馬体をひと目見て

「なんだ、お前。凄い体になってるじゃないか・・・」

と感心したという。目の前のバブルガムフェローは、育成時代に厩舎に送り出した時に比べ、さらにたくましく成長していた。

「こいつはまだまだ強くなる・・・」

 その手応えは、想像ではなく実感であり、願望ではなく確信だった。社台ファームの生産馬には、1歳上に無敗のまま朝日杯3歳Sを制しながら、クラシックを前に屈腱炎に倒れて引退を余儀なくされたフジキセキもいたが、バブルガムフェローには競走馬としての未来がつながっている。

「クラシックを勝った馬を、秋には全部負かすぞ!」

 それが、彼らの新しい励みとなった。

『ある乗り替わりの意味』

 春を休養にあてたバブルガムフェローは、予想以上に回復が早く、夏のうちに帰厩を果たし、秋競馬の始まりとともに復帰レースが取り沙汰されるようになった。

 そんな彼の周囲に、ざわめきがまったくなかったわけではない。主戦騎手の岡部騎手が、函館記念(Glll)で皐月賞2着、日本ダービー4着の実績を持つロイヤルタッチに騎乗することになったため、

「岡部は菊花賞ではどうするつもりなんだろう」
「もしや、バブルガムフェローを捨てる気か」

という憶測が流れ、騒然となったのである。

 だが、その後藤澤師から発表されたバブルガムフェローのローテーションは、その憶測に対して答えを与えるものだった。

「バブルガムフェローは、菊花賞(Gl)ではなく天皇賞・秋(Gl)を目指す」

 それが、藤澤師の決断だった。バブルガムフェローが天皇賞・秋に出る以上、岡部騎手が菊花賞でロイヤルタッチに騎乗することになったとしても、何の問題もない。ロイヤルタッチの乗り替わりによって投げかけられた謎は、こうして解決をみたのである。

『変わる時代』

 もっとも、4歳馬であるバブルガムフェローの天皇賞・秋への挑戦は、競馬界にそれまでとは違った形での波紋を呼んだ。それまでの競馬界では、4歳馬にとっての「古馬の壁」が常に意識され続けてきたからである。

「4歳馬と古馬が対戦した場合、よほどのことがない限りは歴戦の古馬が有利なはず・・・」

と信じる競馬関係者、ファンは多い。まして、強いはずの古馬に一線級が揃うGl級ではなおさらである。一線級になればなるほど、単なる実力差を越えた精神面、経験による違いは大きくなる。たとえどんな強い馬でも、4歳で古馬の一線級と互角に戦い、これを打ち破ることは至難というのが、人々の共通認識だった。

 それに加えて、当時の競馬界は、「皐月賞、ダービー、菊花賞」というクラシック路線を中心に構築されていた。わざわざ強い古馬と対戦しなくとも、同世代限定で、しかも十分な格式を持つ菊花賞があるのだから、4歳馬が天皇賞・秋に挑む必要はないではないか。そんなホースマンたちの意識を物語るように、天皇賞・秋(1944年までは帝室御賞典として施行)は長らく古馬限定戦として行われており、87年以降4歳馬に門戸が開放された後も、クラシック登録がなかったために菊花賞には出走できなかったオグリキャップのような少数の例外を除くと、4歳馬による天皇賞・秋への挑戦自体がまれという状態が続いた。

 しかし、90年代以降、競馬界は確実に変わりつつあった。調教技術の進歩により「古馬の壁」は低くなり、距離適性の意識によって長距離適性のない馬を3000mの菊花賞に使うことの問題点も意識されるようになった。長らく続いたアンシャン・レジーム・・・旧体制は、ついに崩れ始めたのである。前年の95年に皐月賞馬ジェニュインが天皇賞・秋に参戦し、2着に健闘したのは、そんな時代の変化の象徴だった。

 変わり行く時代の中で、バブルガムフェローを最もよく知るであろう2人・・・岡部騎手と藤澤師のバブルガムフェロー観が、次の2点で一致した。

「この馬は、2000mがベストディスタンス」
「4歳馬とはいえ、この馬の完成度なら、『古馬の壁』は越えられる」

 もともとバブルガムフェローの母の父であるLyphardの産駒は、中距離以下でのレースを得意とする馬が多い。3000mのレースを騙し騙し使うことは、その後のレースに悪影響をもたらすかもしれない。また、欧州では、4歳馬は夏に古馬に挑戦することが一般化しており、英愛仏のクラシック馬たちは、夏のキングジョージvi&Q.エリザベスS(国際Gl)で古馬の一線級に挑むようになっている。加えてバブルガムフェローの最大の武器は何かと問われれば、「レースとは何かを知っているセンス」である。一般的に古馬と4歳馬を分ける最も大きな要素が、バブルガムフェローには備わっているはず。ならば・・・。

 藤澤師を衝き動かしたのは、この馬が、そして時代が最も必要としているのは菊花賞でなく天皇賞・秋に挑むことではないか、という思いだった。

「バブルガムフェローには、彼にしかできない仕事がある」

 そう信じる彼らに、菊花賞をあきらめることへの迷いはまったくなかったという。

『いばらの道』

 バブルガムフェローの復帰戦は、世代限定戦の神戸新聞杯(Gll)やセントライト記念(Gll)ではなく、古馬が相手の毎日王冠(Gll)に決まった。この年から毎日王冠は国際レースとして外国馬にも開放されたが、1番人気に支持されたのが春にNHKマイルC(Gl)を制した4歳馬タイキフォーチュンで2番人気がバブルガムフェローだったことから分かるように、出走する古馬たちのレベルは、高いとみなされてはいなかった。

 そんな出走馬たちを相手とするバブルガムフェローだったが、さすがに半年ぶりという実戦がこたえたのか、前半は中団につけながらもややかかり気味となっていた。そんなバブルガムフェローとは対照的に気分良く競馬を進めていたのは、向こう正面から先頭でレースを引っ張ったトーヨーリファールであり、そんな逃げ馬を追走して早々に2番手につけたアヌスミラビリスだった。

 彼らが作り出した前半1000m59秒1というペースは、決して遅いものではない。だが、競馬には時計よりリズムが大切なこともある。やがてレースが直線を迎え、バブルガムフェローが激しく追い上げるものの、何者にも縛られることなく自由にこのペースとレースを作り上げた2頭の脚は、なかなか止まらない。

 ・・・前年の3歳王者バブルガムフェローは、前走のウィンターヒルS(英Glll)で初めて重賞を勝ったばかりでドバイでは二線級と見られていたアヌスミラビリス、重賞3勝の実績はあるものの、ここ1年半ほどは馬券にも絡んでいなかったトーヨーリファールをとらえ切れず、3着に敗れた。

「これで本番へのメドが立ちました」

 岡部騎手は、レース後にそうコメントしている。だが、半年ぶりの実戦、それも初めての古馬との対戦で3着というのは並みの馬なら「次走へのメドが立った」とみてもいいが、3歳王者となるとそうはいかない。

「この程度の馬に勝てず、本番で通用するのか・・・?」

 ファンからは、そんな失望と落胆の声も漏れていた。より強い敵とぶつかる前の段階での躓きに、それまでのバブルガムフェローに対する評価自体を見直したという面もある。だが、それより何より、この年の天皇賞・秋・・・第114回天皇賞・秋でバブルガムフェローが対戦すべき古馬たちは、アヌスミラビリス、トーヨーリファールといった馬たちと比べても、あまりに顔ぶれが揃いすぎていた。バブルガムフェローが目指した第114回天皇賞・秋の出走表を彩る古馬たちには、サクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといった強豪たちの名前が含まれていたのである。

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