バブルガムフェロー列伝~うたかたの夢~
『最後の戦い』
天皇賞・秋でエアグルーヴの2着に敗れたバブルガムフェローは、次走としてジャパンC(国際Gl)を選んだ。前年に13着と敗れ、彼の失墜の契機となった因縁のレースには、エアグルーヴも出走を表明していた。
「牝馬に負けたままでは終われない・・・」
バブルガムフェロー陣営を覆うのは、そんな悲壮な覚悟だった。だが、この時彼らは気づいていただろうか。かつて「世界」を見ていたはずの自分たちの目が、この時は「エアグルーヴ」というただ1頭の牝馬にしか向けられていなかったことに、そしてそのことを彼ら自身が違和感なく受け入れてしまっているという現実に・・・。
ジャパンCでの単勝人気は、バブルガムフェローが370円で1番人気、エアグルーヴが400円で僅差の2番人気となった。3番人気は、外国招待馬の大将格であるピルサドスキーである。
ツクバシンフォニーが逃げ、前半1000mが1分00秒8という淡々としたレースをつくる中で、バブルガムフェローは馬群の5、6番手・・・というよりは常時エアグルーヴの1馬身後方につけ、天皇賞・秋で後塵を拝したただ1頭を徹底的にマークする作戦を採った。
そして、馬群が第4コーナーを回り、直線に入ってエアグルーヴと武豊騎手が動いたところで、ようやく岡部騎手の手も動いた。バブルガムフェローが勝負に出る。・・・それは、エアグルーヴだけをかわすための競馬だった。
『甘い夢の果て』
しかし、バブルガムフェローとエアグルーヴとの間の約1馬身差は、そこから決して縮まることはなかった。
馬群の内から、M.キネーン騎手のムチに励まされたピルサドスキーが一気に突き抜けると、その強襲に闘志を触発されたように、エアグルーヴも続いた。・・・しかし、その動きに一瞬遅れたバブルガムフェローは、完全にレースの流れから取り残されてしまった。ピルサドスキーとエアグルーヴが激しい叩き合いを演じる約1馬身後方で、バブルガムフェローは前の2頭との差をつめることができず、むしろじりじりと差を広げられていくもどかしさの中にいた。
第17回ジャパンCは英国馬ピルサドスキーの手に落ち、日本のエアグルーヴはクビ差の2着に敗れた。・・・このレースでのバブルガムフェローは、エアグルーヴから1馬身4分の1遅れての3着だった。天皇賞・秋に続くこの日の敗戦は、岡部騎手が
「エアをマークして、流れにもうまく乗れた。それで天皇賞より離されるんだから・・・。距離というより、完敗だね・・・」
と言うとおり、バブルガムフェローとエアグルーヴとの力関係を決定づけるに十分なものだった。人々がバブルガムフェローに見ていた甘い夢は、これによって完全に潰えた。
『うたかたと消ゆ』
ジャパンCは、バブルガムフェローの最後のレースになった。エアグルーヴに2戦続けて敗れたバブルガムフェローは、エアグルーヴが歩んだ秋の中長距離Gl戦線の最終章にあたる有馬記念(Gl)、そしてその後のレースに出走することなく、ターフを去ることを決めたのである。
バブルガムフェローの引退については、様々な風説が流れている。公式には「屈腱炎を発症した」とされているバブルガムフェローだが、
「休ませて安田記念にでも使おうかと思っていたけど、照哉さん(社台ファーム社長)に『もう種牡馬にしよう』と言われたので引退を決めました」
と語るのは、引退に至る事情を知らないはずがない藤澤師である。バブルガムフェローの脚に炎症が出たことまでは間違いないにしても、それが再起不能であったかどうかについて、果たしてどこまで厳密に確認しただろうか。かつて世界への夢まで託された大器バブルガムフェローだが、古馬になってからの彼の戦績は、もはや底を見せつつあった。ならば、「屈腱炎かもしれない」脚の炎症の正体をあえて確認しないことで、バブルガムフェローの栄光の余韻を残したまま彼を歴史にすることを選んだとしても不思議はない。
こうして種牡馬入りしたバブルガムフェローは、サンデーサイレンス産駒初期の傑作の1頭として、社台スタリオンステーションで供用された。
2001年にデビューしたバブルガムフェロー産駒は、地方競馬を中心としたダート戦線で実績を残すという特色を見せたものの、十分な産駒数に恵まれたにもかかわらず、重賞級で活躍する馬は少数にとどまり、Glを勝つ馬はついに現れなかった。ただ、シャトル種牡馬として供用されたオセアニアでGl馬を輩出したことは、特筆すべき成果である。
やがて、社台スタリオンステーションから移って種牡馬生活を続行したバブルガムフェローだったが、2010年4月26日、肺炎によって死亡した。
バブルガムフェローが残した実績は、立派なものと言っていい水準である。しかし、バブルガムフェロー陣営の人々が望んだ未来は、本来こんなものではなかった。
「どういうわけか、口が難くなってコントロールが効かなくなることがあった。あれがなければ、歴代の最強馬と呼ばれる馬たちとも肩を並べるくらい走れたと思うよ」
と語るのは、彼の主戦騎手を務めた岡部騎手である。しかし、古馬になってからの彼は、
「4歳のときのデキには戻らなかった・・・」
という。大器が未完のまま終わったことで、彼らがバブルガムフェローに見た夢と野望もまた、戦場のうたかたと消えた。
「人の夢」と書いて、「儚い」と読む。あさき夢みし人の世に、酔いを重ねてようやく迎えた結末がただ悲しいものだったという儚さを、バブルガムフェロー陣営の人々はどのように受け止めたのだろう。
『それでも人は幻を求め続ける』
競馬界の中でバブルガムフェローというサラブレッドを振り返ると、その位置づけは非常に不思議なところにいる。彼は1996年クラシック世代にあたるが、実際には春を故障で棒に振り、秋は菊花賞でなく天皇賞・秋に向かったため、同世代のトップクラスとはほとんど対決していない。特に、同期の3頭のクラシック馬たち・・・ダンスインザダーク、フサイチコンコルド、イシノサンデーとは、一度も対戦することはなかった。彼が栄光をつかんだ同年の天皇賞・秋を見ても、「サクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデー」が「三強」と呼ばれることはあっても、バブルガムフェローを加えて「四強」と呼ばれることはない。実際には、当日の3番人気だったのはマヤノトップガンではなくバブルガムフェローだったにも関わらず、である。彼は、やがて見失った頂への道を再び見つけることができず、一種の不完全燃焼感を残したまま、北海道へと帰っていった。バブルガムフェローに寄せられた期待が大きければ大きいほど、その突然の終末はあまりにあっけなく、人によっては失望を隠せなくなるのは仕方のないことかもしれない。
だが、藤沢師、岡部騎手という一流のホースマンが、バブルガムフェローの瞳の中にとてつもない夢を見ていたことは間違いない事実である。競馬とは、もともと見果てぬ夢を追い続ける日々の繰り返しである。そんな日々の中で夢の一端を感じさせてくれるような素材に出会った時、ホースマンたちは震える。その時彼らは、人の身では本来たどり着くことを許されない聖域に足を踏み入れる特権、ないしは神の祝福を得たかのような衝撃に駆られるのである。
ほとんどの場合、彼らが見る夢は幻である。幻は実態を持たないがゆえに儚く、時が経つとともに消えてゆく。それはバブルガムフェローの場合も例外ではなく、人々がバブルガムフェローから感じ取った夢と予感もまた、うたかたと消えた。
人はそれを「裏切り」というかもしれない。だが、競馬が続く限り、我々は新しい幻とうたかたを探し、永遠に至ることのない聖域を求め続ける。今度こそは本当の聖域にたどり着くことを信じて。それは、競馬に夢を追い続ける人の業そのものである。だから、馬が結果的にそれを果たせなかったからといって、そのことを責めたり、また過小評価したりすることは誤りといえよう。
この世に競馬ある限り、我々の旅は続く。今度こそは夢をうたかたで終わらせないために・・・。バブルガムフェローもまた、我々に一瞬の夢を見せてくれたサラブレッドたちの歴史の1ページとして、確かにその存在を私たちの歴史の中に刻んだ。いつか、未完に終わった彼の存在が、別の新たな伝説として引き継がれていく日が来ることを、心より願っている。