ダイイチルビー列伝~女は華、男は嵐~
1987年4月15日生。牝。黒鹿毛。荻伏牧場(浦河)産。
父トウショウボーイ、母ハギノトップレディ(母父サンシー)。伊藤雄二厩舎(栗東)。
通算成績は、18戦6勝(旧4-6歳時)。主な勝ち鞍は、安田記念(Gl)、スプリンターズS(Gl)、京王杯スプリングC(Gll)、京都牝馬特別(Glll)。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
『華』
日本においては長らく「ギャンブル」としてしかとらえられてこなかった競馬だが、その発祥地である英国での起源を探れば、この見方は明らかな誤りであることが分かる。競馬とは、もともと英国貴族たちが家門の名誉を賭けて、自らの所有する血統から名馬を送り出すことを競い合う「ブラッド・スポーツ」として始まった。馬とは直接関係のない大衆が勝ち馬を予想して金を賭けるという行為は、英国貴族たちの没落によって競馬が趣味から産業へと転換した後はともかく、競馬の発祥時においては競馬の本質ではなかったのである。
古今東西を問わず、貴族社会の特徴は、貴族たる彼ら自身を貴族ならざる平民とは異なる尊いものとみなす点にある。だが、貴族を平民から分かつものは何かといえば、それは彼らの血統しかない。貴族の家に生まれた者は貴族、平民の家に生まれた者は平民。貴族としての地位と特権を正当化しようとする限り、彼らは血統による区別に絶対的な価値を認めざるを得なかった。そんな彼らの社会において、自らの所有する血統の優劣を競う競馬の価値観は、非常に適合的だった。そんな社会の中で発展した競馬自体、「優れた父と母からは、優れた子が生まれる確率が高い」という遺伝学上の確率論にとどまらない「血の連続性」が、独自の意味を帯びずにはいられなかった。
とはいえ、サラブレッドとは、もともと祖先をたどるときわめて少数の始祖にたどり着く、近親交配を宿命とした非常に閉鎖的な品種である。いつの世にも、自家産の繁殖牝馬に自家産の種牡馬を交配することにこだわり、そんな中から名馬を生み出すことに固執する者はいるが、こうした手法では早晩近親交配の弊害を避けられず、長期間の栄光を保つことは難しい。そこで多くの貴族たちが重視したのは、年間に数十頭の産駒を得ることが可能な種牡馬を中心とする父系ではなく、1頭が年間に1頭、その生涯においても十数頭しか産駒を得ることができない母系を中心に据えた、いわゆる「牝系」を中心とする競馬独特の価値観だった。競馬において「一族」とされるのは牝系を共通とする馬のみであり、「兄弟」と呼ばれるのも同母の場合に限られる。そんな価値観を前提とした上で、多くの名馬を輩出した一族は「名牝系」としてその栄光を称えられ、その歴史は血統の物語として後世へと語り継がれる。競馬の血統を語る場合に、「牝系」という価値観を無視することは、もはや不可能といっていいだろう。
このように「牝系」という価値観自体は、競馬の発祥たる英国貴族の独自の価値観を色濃く反映したものだが、英国競馬の体系や思想を継受した日本競馬においても、その影響は厳然と存在している。日本でも競走馬の血統が牝系を中心として語られることは同様であり、そしていくつかの牝系は、その実績によって「名牝系」として認知されてきた。
その中で、古い歴史と高い知名度と人気を誇る一族のひとつが、1957年に日本に輸入されたマイリーを祖とする牝系である。牝祖の名をとって「マイリー系」とも呼ばれるこの牝系は、過去にイットー、ハギノトップレディ、ハギノカムイオーといった多くの記録と記憶に残る名馬を輩出し、いつしか「華麗なる一族」と謳われるようになっていった。今回のサラブレッド列伝の主人公であるダイイチルビーは、そんな「華麗なる一族」の正当な後継者として生を受けた牝馬である。
「華麗なる一族」の栄光を代表する母、そして「天馬」と呼ばれた父との間に生まれたダイイチルビーは、その輝かしい血統ゆえに、生まれながらに注目を集める存在だった。そんな彼女のクラシック戦線での戦績は振るわず、一時「不肖の娘」とされたこともあったものの、古馬になって一族の宿命ともされていた「逃げ」から正反対の「追い込み」へと脚質を転換したその時から、彼女の栄光の道は始まった。名馬ひしめく古馬マイル路線に乗り込んだ彼女は、牡馬たちに伍するどころか、彼らを次々と叩きのめして1991年の安田記念(Gl)とスプリンターズS(Gl)を制し、名マイラーとしての名誉と賞賛をほしいままにしたのである。彼女がその名に背負う「ルビー」は、「情熱」「威厳」「不滅」「深い愛情」などを象徴する宝石とされているが、彼女の競馬は、そんな数々の言葉にも恥じないものだった。
だが、そんな彼女の前に大きく立ちはだかったのが、嵐のような激しさでマイル戦線を荒らし回る同年齢の強豪マイラー・ダイタクヘリオスだった。ダイタクヘリオスは、派手とは言い難い一族に生まれながら自らの実力をもって人々の注目を集め、宿命に抗うようなしぶとく粘り強い先行力を武器としており、ダイイチルビーとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていった。
そこで今回は、あらゆる意味で対照的な存在であり、そうであればこそ華のような華麗さと嵐のような激しさで、同じ時代のマイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にした2頭の軌跡を語ってみたい。
『名牝マイリーから』
ダイイチルビーは、1987年4月15日、当時日本で屈指の名門牧場として知られていた浦河の荻伏牧場で生を受けた。父が「天馬」トウショウボーイ、母がハギノトップレディという血統は、内国産馬としては間違いなく最高級のものである。日本の馬産界が誇る名血を一身に注がれて誕生したダイイチルビーは、生まれながらにして名牝マイリー系、世に「華麗なる一族」とうたわれる名牝系の正統なる後継者となることを宿命づけられていた。
ダイイチルビーについて語るためには、まず彼女自身を基礎づけたその血統、「華麗なる一族」について語らなければならない。牝系としてのマイリー系、人呼んで「華麗なる一族」と称される一族の始まりは、1957年、牝祖マイリーが英国から日本へと輸入された時に遡る。
当時の荻伏牧場は、繁殖牝馬が一桁の小さな馬産農家にすぎなかった。しかし、当時の当主である斉藤卯助氏は、日本競馬の将来を見据えると、今のうちに海外の新しい血を導入しなければ、時代の変化についていけなくなると考えていた。1956年、そんな卯助氏が英国に飛び、現地で買い付けてきた何頭かの繁殖牝馬の中に、後の名牝マイリーが含まれていた。
ところで、現在こそ繁殖牝馬の輸入には飛行機を使うことが当たり前になっているが、当時は繁殖牝馬を飛行機で運ぶなどということは考えられない時代だった。マイリーたちの輸送方法も飛行機ではなく船で、アフリカ大陸の南端からユーラシア大陸沿いの海路をとって日本へ向かった。
ところが、マイリーたちを乗せた船の運航中、運悪く航路の中東は、スエズ動乱で大混乱に陥ってしまった。船は戦乱に巻き込まれることを防ぐため、やむなく航路を大幅に変更したが、それで大きな影響を受けたのは、船上のマイリーたちだった。マイリーは英国で受胎した英国2000ギニー馬ニアルーラの子の出産を控えていたが、大幅な航路変更のおかげで到着予定日が大幅に遅れたため、このままでは船上の出産になってしまいかねない状況に陥ったのである。荻伏牧場の人々は、おおいにあわてた。
「このままでは、子供が産まれてしまう!」
もともとたくさんの繁殖牝馬の中からマイリーを選んだのは、マイリー自身の魅力に惹かれたというよりも、英2000ギニー馬ニアルーラの子を、海外で種付けした繁殖牝馬を日本へ持ち込むことによって日本で生まれた「持込馬」として走らせたいということの方が大きかった。しかし、もしマイリーが日本に入国する前にその子を出産してしまうと、その子馬は「外国産馬」となり、クラシックをはじめ、出走できるレースが大きく制限されてしまう。・・・後に持込馬マルゼンスキーによってクローズアップされる「持込馬はクラシックに出られない」という悲劇は、実は1971年に導入されたもので、それ以前の持込馬は、内国産馬と同じく普通にクラシックへの出走権があったことは、注意を要する。
閑話休題。到着予定日になってもいっこうに到着しないマイリーに、彼らの焦りは募ったが、馬が海の彼方にいるのでは、どうしようもない。彼らは胸をつく不安にさいなまれながら、船の到着を今か今かと待ちわびていた。
マイリーたちを乗せた船が横浜港に入港したのは、年が変わった57年2月下旬で、馬産地は既に出産シーズンに入りつつあった。船を迎えに行った牧場の人々は、まだマイリーのお腹が大きいことを確認し、ほっとしたという。・・・そのマイリーが初子を出産したのは、なんと船の横浜港入港からわずか2日後のことだった。
『華麗なる一族』
こうしてかろうじて持込馬=内国産馬の資格を得たマイリーの初子となる牝馬は「キユーピット」と名付けられ、現役時代を通じて通算35戦9勝の戦績を残した。牝馬ながらに9勝をあげた彼女は、高い期待とともに繁殖入りしたものの、3頭の子を残しただけで死んでしまい、その牝系はすぐに途絶えてしまうかとも思われた。
しかし、その数少ないキユーピット産駒の1頭であるヤマピットは、早速マイリーの血の底力を競馬界に知らしめることに成功した。ヤマピットは島田功騎手を背にオークスを逃げ切ったばかりか、古馬になってからも大阪杯、鳴尾記念などを勝ち、重賞を5勝したのである。
こうしてマイリー系の底力を最初に世に広く知らしめたヤマピットは、繁殖牝馬として子孫にその血を伝えていくことになった。ところが、そのヤマピットが牡馬を1頭生んだだけで急死してしまったため、ヤマピットの代わりとして急きょ牧場へ呼び戻されたのが、ヤマピットの妹のミスマルミチだった。
重賞勝ちこそないものの、31戦8勝の戦績を残していたミスマルミチの系統が、現在につながるマイリー系である。ミスマルミチの初子は、「一刀両断」から馬名をとってイットーと名づけられたが、そのイットーは高松宮記念、スワンSを勝つなど15戦7勝の実績を残した。
このころになると、それまでヤマピット、ミスマルミチ、イットーといった個々の馬の活躍としかとらえられていなかった彼女たちの活躍は、「マイリー系」という一族の活躍としてとらえられるようになり始めた。不思議と牡馬よりも牝馬が活躍するこの一族は、ある名門の女系家族における野望と権力闘争を描いた山崎豊子のベストセラーのタイトルにちなんで「華麗なる一族」と呼ばれるようになっていった。・・・ダイイチルビーの母ハギノトップレディは、そんな「華麗なる一族」の栄光を象徴する名馬の中の名馬である。