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1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~

 ~ダイアナソロン~
 1981年3月18日生、1994年9月20日死亡 。牝。鹿毛。ランチョトマコマイ(苫小牧)産。
 父パーソロン、母ベゴニヤ(母父ヒカルタカイ)。中村好夫厩舎(栗東)。
 通算成績は、13戦5勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、サファイヤS(Glll)、
 エルフィンS(OP)
 ~トウカイローマン~
 1981年5月19日生 、2007年2月17日死亡 。牝。黒鹿毛。岡部牧場(浦河)産。
 父ブレイヴェストローマン、母トウカイミドリ(母の父ファバージ)。中村均厩舎(栗東)
 通算成績は、30戦5勝(旧3~7歳時)。主な勝ち鞍は、オークス(Gl)、京都大賞典(Gll)、
 ジューンS(OP)。
 ~キョウワサンダー~
 1981年4月12日生、1987年8月12日死亡。牝。芦毛。協和牧場(新冠)産。
 父ゼダーン、母キョウワレディ(母の父バウンティアス)。吉岡八郎厩舎(栗東)
 通算成績は、23戦4勝(旧3~5歳時)。主な勝ち鞍は、エリザベス女王杯(Gl)、大原S(OP)。

『祭りは終わりぬ』

 1984年秋にはサファイヤS、ローズS、エリザベス女王杯の3度にわたって対決する形となった1984年牝馬三冠戦線のヒロインたちだったが、彼女たちの軌跡はエリザベス女王杯を最後に、二度と重なることはなかった。

 ダイアナソロンは、エリザベス女王杯の後、第4回ジャパンC(Gl)へと出走した。この年の14頭の出走馬たちのうち日本馬はわずか4頭と少なかったものの、悲願の制覇にかかる期待はこれまでになく大きなものだった。しかし、その期待の先にいるのは常に2頭の三冠馬、ミスターシービーとシンボリルドルフであり、結果において予想をひっくり返す波乱を起こしたのは、もう1頭の日本馬カツラギエースだった。予想と結果・・・そのすべてにおいて常に蚊帳の外にいたダイアナソロンは、14頭立ての13番人気で14着の最下位に終わると、有馬記念には出走せず、84年の戦いを終えた。また、ジャパンCを回避して有馬記念(Gl)に挑戦したキョウワサンダーも、シンボリルドルフ、ミスターシービー、カツラギエースの「三強対決」に盛り上がる中、これとはまったく無縁のままに、11頭立ての10番人気で10着に敗れた。これらは、「名馬の時代」・・・後世においてそう呼ばれるいくつかの時代のひとつであるこの時代の古馬中長距離戦線に進んでいかなければならない彼女たちの世代の道行きの苦戦を予想させるに十分なものだった。これらの結果は、彼女たちの世代が古馬中長距離戦線に入っていった後の苦戦を予想させるに十分なものだった。

 一方、ジャパンC、有馬記念といった古馬中長距離戦線の王道とはまったく異なる独自路線を歩んだのは、トウカイローマンだった。彼女はエリザベス女王杯こそ4着に入ったものの、秋の戦績からシンボリルドルフが君臨する古馬中長距離戦線への参戦は難しいと思ったのか、ダートのウインターS(Glll)から、牝馬限定戦の阪神牝馬特別(Glll)というローテーションを選んだ。ダイアナソロン、キョウワサンダーの結果だけを見れば賢明な選択とも思われたが、肝心の彼女自身が5着、12着に終わったのでは、あまり意味がなかった。

 牝馬三冠戦線・・・4歳牝馬のみによる祭りは既に終わり、彼女たちはこれから古馬、牡馬たちと伍して戦い抜かなければならない。そんな行く先の苦難を暗示する形で、彼女たちの1984年は静かに暮れていった。

『ターフに別れを告げる時』

 1985年に入ってからは、ダイアナソロン、トウカイローマン、キョウワサンダーの3頭は、それぞれ自分自身の戦いの中へと戻っていった。

 まず、マイル路線に活路を見出そうとしたのは、桜花賞馬ダイアナソロンだった。彼女はマイラーズC(Gll)から始動し、マイル界の王者として君臨したニホンピロウィナーの3着、続くコーラルS(OP)では、1歳上の桜花賞馬・シャダイソフィアの3着となった。勝てはしないものの、相手関係を考えれば失望するほどでもない戦績で今後への期待をつないだダイアナソロンだったが、その後脚部不安を発症し、現役を退くことになった。通算戦績13戦5勝2着1回3着4回、牝馬三冠のうち桜花賞を制し、オークスとエリザベス女王杯で1番人気に支持された彼女は、振り返ってみれば、1984年牝馬三冠戦線の常に中心にあったことになる。

 5歳春を全休した後、古馬中長距離戦線への復帰の道を探ったのは、エリザベス女王杯馬キョウワサンダーである。秋に入ってからは朝日CC(Glll)、京都大賞典(Gll)というローテーションを歩み、結果次第で天皇賞・秋(Gl)、ジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)と続く古馬中長距離戦線の王道への復帰の可能性も探った彼女だったが、その試金石となるふたつのレースでいずれもブービーという結果では、諦めざるを得なかった。なお、キョウワサンダーが惨敗した京都大賞典の勝ち馬は、2歳年上の牝馬・ヤマノシラギクである。82年の牝馬三冠戦線では無冠に終わった彼女だが、古馬になってからも成長を続け、83年の京都大賞典(重賞)を勝っている。京都大賞典2勝目の実績をひっさげてその後天皇賞・秋、ジャパンC、有馬記念という王道を歩んだヤマノシラギクと比べると、キョウワサンダーは一枚も二枚も及ばなかった。

 ただ、こうしてファンから忘れられていくかに見えたキョウワサンダーは、次走の大原S(OP)で突然よみがえった。オープン特別で6頭だての少頭数・・・。そんな地味な舞台ではあったものの、4番人気に発奮したキョウワサンダーは、エリザベス女王杯と同じ京都2400mコースを舞台に復活し、ほぼ1年ぶりの勝利を飾り、京都の長距離への適性をようやく実証する形となった。

 ・・・そして、キョウワサンダーはその1戦を最後にターフを去っていった。通算成績は23戦4勝、もし大原Sを勝たなければ「エリザベス女王杯だけの一発屋」で終わったであろう彼女は、彼女自身への低評価に対し、最後の最後にようやく一矢を報いたのである。

『ただ1頭の戦い』

 ダイアナソロン、キョウワサンダーがターフを去っていく中、1984年牝馬三冠の勝ち馬たちの中で最も長い間、それもタフに競走生活を続けたのは、オークス馬のトウカイローマンだった。

 翌85年はダートの仁川S(OP)から始動したトウカイローマンは、時にはダート、時には芝、ある時は中央、またある時はローカル開催・・・と自由自在に戦場を変えて各地を走り回った。彼女はエリザベス女王杯の後、Gl戦線ではなくローカルのGlllやオープン特別を中心に回る選択をしたのである。

 ただ、そんな彼女はたまに上位に入って賞金を稼ぐものの、勝ち運にはなかなか恵まれなかった。彼女がオークス以来の勝ち鞍を挙げるのは、オークスからほぼ2年後、やはりオークスと同じ東京2400mで行われたオープン特別のジューンS(OP)でのことだった。

 ジューンSの後、高松宮杯(Gll)で11着に敗れ、さらに脚部不安を発症したトウカイローマンは、そのまま長期休養に入った。内村氏もこの時はトウカイローマンを引退させて繁殖入りさせるつもりで、既にシンボリルドルフの種付け権を彼女のために手に入れていた。トウカイローマンがオークスを制した1週間後の日本ダービー(Gl)を見た内村氏は、シンボリルドルフの制覇を見て以降、

「ローマンが引退したら、ぜひルドルフと交配して子供を走らせよう。ローマンの最初の婿は、この馬しかいない!」

と決めていたのである。

 ところが、中村均師だけは、トウカイローマンはまだ燃え尽きていない、と思っていた。

「なんとかもう1年だけローマンを競馬に使わせてください」

という中村均師の懇請、そして彼らの話し合いの結果、87年のトウカイローマンは春の新潟開催だけ競馬に使い、新潟大賞典(Glll)を最後に引退させることに決まった。新潟大賞典を引退レースに決めたのは、ここで引退すれば、この年の種付けにぎりぎり間に合うからだった。

 ところが、トウカイローマンがその「引退レース」である新潟大賞典で2着に入ってしまったことから、話はややこしくなった。勝てば文句なしの花道になったし、また大敗すればあきらめもついた。その点2着という着順は実に微妙なところである。しかも、中村均師は

「これからもっと調子を上げますよ」

などと内村氏をそそのかし、いかにも引退するのは惜しそうな様子である。・・・内村氏の心は大きく揺れたが、結局もう少しトウカイローマンが走る姿を見てみたいという気持ちが勝ち、しばしの競走生活を続けることになった。せっかく買ったシンボリルドルフの種付け権を無駄にするのはもったいないので、シンボリルドルフの種付け権は、トウカイローマンの妹で、一足お先に繁殖入りしていたトウカイナチュラルに譲ることになった。・・・偶然に生まれたシンボリルドルフとトウカイナチュラルの組み合わせから、後に日本競馬史に残る歴史的名馬が生まれることは、また別のお話である。

『全場踏破のオークス馬』

 新潟大賞典の後はまたGlll、OP特別での掲示板級の戦績で安定したトウカイローマンは、7歳夏には小倉に遠征し、小倉記念(Glll)へと出走することになった。この時中村均師が初めて依頼した騎手が、この年デビューしたばかりの武豊騎手だった。

 小倉記念でのトウカイローマンは、1番人気で5着に敗れてしまったため、その後京都大賞典(Gll)でも武騎手に騎乗を再び依頼した時、中村均師は武騎手の父親である武邦彦調教師に捕まり、

「豊なんかで大丈夫か?もっとほかの騎手を乗せたらどうだ」

と言われたという。・・・だが、その反対を押し切っての依頼の答えは、トウカイローマン、7歳にしての京都大賞典制覇という形となって返ってきた。この年にデビューしたばかりの18歳だった武豊騎手にとって、この日は生涯で最初の重賞制覇となった。

 その後、オークスとジューンSで2戦2勝の東京芝2400mコース適性に賭けてジャパンC(Gl)に挑戦したトウカイローマンだったが、ここではさすがに力及ばず11着に破れ、そのまま引退する予定だった。しかし、ここで中山競馬場のレースに使えば、牝馬としては2頭めの中央競馬の全場踏破となることから、急遽有馬記念に出走することになった。

 3歳でデビューし、この日まで4年以上にわたって走り続けたトウカイローマンは、その戦歴の中で、3歳時は中京、4歳時は京都・阪神・東京、5歳時は札幌・函館、6歳時は新しい競馬場では走らなかったものの、7歳時は新潟・福島、そして小倉と各競馬場を踏破し、この日中山競馬場で迎えた「全場踏破」の記録は、まさに30戦目でようやくたどりついた彼女のための金字塔だった。各世代のチャンピオンホースのみが出走を許されるグランプリにおける彼女は、さすがに力及ばず11着に終わったものの、長い時間をかけて少しずつ積み上げてきたこの記録の価値は、なんら損なわれるものではないだろう。

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