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1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~

『ルーツ』

 このように「亡霊の一族」として有名になったクモワカの牝系だが、ダイアナソロンは桜花賞馬ワカクモの2歳下の半妹であるオカクモの孫にあたる。テンポイントは、ダイアナソロンにとっては母のいとこになる。

 競走馬として25戦4勝の戦績を残し、毎日杯と阪神牝馬特別で2着に入ったオカクモは、マル地の英雄ヒカルタカイと交配されてベゴニヤを生んだ。ヒカルタカイは史上初の南関東三冠馬であり、かつ地方出身馬として初めて天皇賞を制した名馬である。この馬は、とにかく勝つときには2着をぶっちぎり、彼が2着馬につけた着差は東京ダービーで12馬身差、天皇賞では実に18馬身差だったと言われている。他にも宝塚記念を日本レコードで制した実績を持つ彼を「史上最強のマル地馬」に挙げるオールドファンは少なくない。

 そうして生まれたベゴニヤに、当時のトップサイヤーの1頭であるパーソロンを交配して生まれたのがダイアナソロンである。当時、最高傑作のシンボリルドルフこそまだ出していないとはいえ、産駒による4年連続のオークス優勝、メジロアサマでの天皇賞、サクラショウリでのダービー制覇などにより、パーソロンは既に大種牡馬としての地位を確立していた。

 ダイアナソロンが生まれた場所は、苫小牧のランチョトマコマイである。字面だけを見ると「ランチョトマコマイ」とは何のことか、と一瞬戸惑うが、これはれっきとした牧場名で、「ランチョ」とは牧場という意味を示す英語のひとつだから、訳してみれば「苫小牧牧場」となる。これは、内容が同じでも表現方法によって印象が大きく変わる好例といえよう。ちなみに、当時のランチョトマコマイの場主は、血統評論家として知られた白井透氏の父親で、競馬新聞「ケイシュウ」の創始者である白井新平氏である。彼は、日本の競馬新聞には欠かせない「本命=◎、対抗=○、穴=▲・・・」といったおなじみの用語や記号を発明した人物として知られている。また、血統や年齢、近走を付記することで、ファンの予想に資する紙面を作ったのみならず、当時地方競馬で横行していたといわれる馬のすり替えまで一掃したとも言われている。

 ランチョトマコマイ時代のダイアナソロンは、怪我や病気とは無縁で牧場の人々の手を焼かせることはほとんどなかった。ただ、その半面で同期の馬の中でも特別に目立ったところもなかったという。

『戦場に降りる』

 やがてダイアナソロンは、競走名も正式に決まり、栗東の中村好夫厩舎へと入厩することになった。中村好厩舎は、当時毎年30位前後の成績を残す中堅厩舎のひとつだった。ちなみに、ダイアナソロンという馬名の由来は、月の女神たる「ダイアナ」と父のパーソロンの名前の一部の合成である。さらに、「ダイアナソロン」の総画数は18画となるが、当時姓名判断に凝っていたダイアナソロンの馬主にいわせると、これは出世が約束された好運の数なのだそうである。

 中村好師がダイアナソロンの主戦騎手に選んだのは、1978年にデビューして以来みるみる頭角を現し、早くも関西のトップジョッキーの1人に数えられつつある田原成貴騎手だった。もともと中村好師は田原騎手の実力を高く買っており、82年クラシックでは、有力候補との呼び声高かったサルノキングの主戦騎手に、田原騎手を起用している。・・・この時の抜擢は、結果的には双方、特に田原騎手に大きな傷となって残る結果となったものの、彼らの友誼は切れることなくこの時も続いていた。

 ダイアナソロンが田原騎手とのコンビで臨んだのは、阪神競馬場の芝1200mでの新馬戦だった。もっとも、13頭だての4番人気という単勝の人気は、血統と鞍上からすれば、むしろ過小評価にも思われる。

 ダイアナソロンは、このレースで2着に2馬身差をつけて快勝し、デビュー戦を飾った。レース後、田原騎手は

「素晴らしい素質を持った馬だと思いますよ。クラシックに行って楽しみがある。できるだけ大事に使っていきましょう」

と言ってダイアナソロンの将来性を称えた。その後、萩特別(500万特別)にも勝って戦績を2戦2勝としたダイアナソロンは、翌年のクラシックの有力候補として、人々に認知され始めた。

 だが、年末のシクラメン賞(800万下特別)に出走したダイアナソロンは、ここで8着に沈む原因不明の大敗を喫してしまった。この日は萩特別から3ヶ月近く間隔があいた上、主戦騎手の田原騎手が有馬記念でリードホーユーに騎乗するために阪神競馬場を留守にしており、ダイアナソロンの手綱は加用正騎手に譲っていたが、その微妙な影響があったのか。いずれにしろ、ダイアナソロンにとって不本意な結果だったことは間違いない事実である。

 一方、ダイアナソロンを残して中山遠征に出かけた田原騎手は、リードホーユーで有馬記念制覇を果たした。デビュー以来順調に出世街道をひた走る田原騎手だったが、大レースの制覇はこれが初めてだった。また、彼はこの年のリーディングジョッキーにも輝いた。これらは、ダイアナソロンには田原騎手しかいない・・・そう感じさせる結果だった。

『平坦ならざる道』

さて、1984年に入り、エルフィンS(OP)から始動したダイアナソロンは、初めての重馬場も苦にせず鋭い末脚を繰り出し、まずは順調な滑り出しを見せた。これで通算成績を4戦3勝としたダイアナソロンは、いよいよ桜花賞本番に直接つながるトライアルレース・4歳牝馬特別(Gll)に出走することになった。

 当時の桜花賞のトライアルレースは、この4歳牝馬特別とチューリップ賞(OP)だけであり、4歳牝馬特別は5着、チューリップ賞も3着までに入った馬に、桜花賞への優先出走権を与えられていた。いきおいこのふたつのレースには、桜花賞を目指すほとんどの馬たちが集中することになる。この日も15頭の出走馬がそろったが、これは新馬戦こそ13頭立てで勝っているものの、その後は比較的少頭数のレースを戦ってきたダイアナソロンにとって、相手関係という意味でも、そして多頭数の競馬という意味でも、初めての試練だった。

 ただ、この日のダイアナソロンは、本番を意識して緩やかな仕上げにとどめられていた。さらに、スタート直後に内に斜行したり、道中馬群の内側に閉じ込められて窮屈な競馬を強いられたり・・・そんな苦しい競馬を強いられたダイアナソロンは、力を出し切ったという感覚もないまま6着に終わった。

 優先出走権すら取れない惨敗は、ダイアナソロン関係者の誰一人予想しないものだった。一部では

「ダイアナソロンは早熟馬だったのではないか」

という疑問も呈された。早熟馬は、強く見えても他の馬の成長が追いついてくると脆く、さらにいったん追いつかれてしまうと、その後もう一度成長するということはまずあり得ない。

 また、この日勝ったのは、前走で初勝利を挙げたばかりの1勝馬ダイナシュガーだった。ダイナシュガーは、当時競馬界を席巻しつつあったノーザンテースト産駒である。当時の馬産界では、ノーザンテーストのみならず、トウショウボーイ、マルゼンスキーといった新世代の種牡馬たちの波が押し寄せ、逆にパーソロンも含めて70年代を支えた名種牡馬たちの勢いには、明らかに翳りが差していた。

 4歳牝馬特別の結果は、トライアルで躓いたという意味でも、また血の勢力図という意味でも、本番を前にしたダイアナソロンには、期待よりもむしろ不安のほうが先に立つものだった。

 このように、桜花賞を前にして不安材料が噴出する形となったダイアナソロンだったが、時の流れを止めることはできるはずもなく、季節はすぐに桜花賞のそれへと移っていった。

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