1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~
『遥かなる初勝利』
やがて、栗東の吉岡八郎厩舎の所属に決まったキョウワサンダーは、出口隆義騎手を背にデビューしたものの、そのレースは8着に敗れた。その後、清水英次騎手とのコンビで未勝利戦に回ってからも10着、5着とまったく振るわない成績が続き、4戦目からは、キョウワサンダーには樋口弘騎手が騎乗するようになった。樋口騎手は、1965年にデビューし、毎年20勝から30勝前後を記録する中堅騎手だった。1981年にはカツアールに騎乗して宝塚記念を制しており、大舞台での騎乗もそこそこ経験がある。
だが、キョウワサンダーは、樋口騎手とコンビを組んでからも、いっこうに勝ち上がりの気配を見せなかった。樋口騎手が初めて騎乗したレースでも5着に終わると、芝で4戦して最高がやっと5着ということで、5戦目からはダートに転じることになった。
するとキョウワサンダーは、ダート転向初戦であっさりと3着に入った。吉岡師は、
「キョウワサンダーには、ダート適性があるのかも」
と思い、その後はしばらくの間、彼女をダートのレースで集中的に使い続けた。
こうしてダートに回ったキョウワサンダーだったが、2着、3着にはよく入るものの、やはり勝ち上がりには及ばなかった。ダートの未勝利戦に8戦出走し、2着4回、3着2回のほか、残る2戦もいずれも掲示板は確保している。しかし、どうしても勝てない。
キョウワサンダーが念願の初勝利を挙げたのは、久々にダートから芝に戻ってのレースで、デビュー以来実に通算13戦目のことだった。グレード制導入以降Glを勝った馬の中で、初勝利まで13戦を要したキョウワサンダーは、今日に至るまでの最長記録である。2位となる2002年菊花賞馬ヒシミラクルですら10戦目で初勝利を挙げていることからすれば、キョウワサンダーが重ねた敗戦の数は、非常に多いということができる。デビューから初勝利までに要した期間でみると、実に7ヶ月となる。この時彼女の世代のトップクラスの牝馬たちの戦いをみると、既に桜花賞はダイアナソロンの勝利に終わり、季節はオークスへ向けて動き始めていた。1ヶ月2走ペースで走りながら、初勝利まで7ヶ月を要したこの馬が、それから半年も経たないうちにGlを勝つなど、この時点ではいったい誰が信じられただろうか。
『荒れる秋の陣』
初勝利まで13戦を要したキョウワサンダーだったが、400万下クラスはわずか2戦で突破し、通算成績を15戦2勝とした。そんなキョウワサンダーが次に挑んだのが、重賞初挑戦となるサファイヤSだった。
そのサファイヤSで2着に入ったキョウワサンダーだったが、当時は開催ごとに本賞金を計算していたため、いわゆる「勝ち得戦」といわれるとおり、本賞金を加えてもすぐには昇級しないことがあった。キョウワサンダーは、次走ではサファイヤSと同開催であるがゆえに「自己条件」となる布引特別(900万下)へと出走した。レース体系の異なる現在では考えられないローテーションである。
ここで3着となったキョウワサンダーは、次いでローズS(Gll)に向かった。ローズSの出走馬には、サファイヤSに続いてダイアナソロン、トウカイローマンの名前もあった。エリザベス女王杯の行方を占ううえで重要なレースとみられていたここでも、有力視されていたのはまずダイアナソロンだった。ただ、トウカイローマンも復調が期待されており、ダイアナソロンとは差があるものの、今度は貫禄の2番人気に支持されていた。
だが、この日の結果は意外なものに終わった。ダイアナソロンは先に抜け出したロングレザーをとらえられなかっただけでなく、後ろから追い込んできたジムベルグにも差し切られてしまったのである。ロングレザーは、この日までの戦績こそ14戦2勝ではあったが、桜花賞(Gl)を筆頭に4歳牝馬特別(Gll)、さらに古馬との混合戦である北九州記念(Glll)で2着に入った実績馬である。また、ジムベルグも春にフラワーC(Glll)を勝った実績を持っている。春にはダイアナソロンの前にひれ伏した実績馬たちの巻き返しは、エリザベス女王杯の行方をより分からなく、そして面白くするものだった。トウカイローマンは6着で、サファイヤSに続いて期待を裏切ってしまった。
・・・もっとも、キョウワサンダーは、このレースに出走したとはいえ、一般的なファンの本番への展望にはまったく関係のないところにいた。6番人気で8着では、それもいたしかたがない。将来のレースへ向けた可能性を探るため、好位からの競馬を試みた樋口騎手だったが、キョウワサンダーの場合、好位からの競馬は、直線での最後の粘りを失う結果となり、次々と他の馬たちに差されていった。前走が条件戦で3着、そしてトライアルが8着という馬に、本番で注目と人気を集めろという方が、無理な話である。
『静かなる幕開け』
第9回エリザベス女王杯で1番人気に支持されたのは桜花賞馬のダイアナソロンであり、それも単勝250円は、オークスのときよりさらにオッズを上げていた。前走の敗戦にもかかわらず落ちない人気は、ファンの彼女への揺るぎなき信頼を物語っていた。
ダイアナソロンとは対照的に、オークス馬トウカイローマンは、サファイヤS5着、ローズS6着という秋の不振が響いて単勝1370円の8番人気まで評価を落としていた。代わって桜花賞馬への対抗勢力に挙げられたのは、クイーンS(Glll)、ローズSと連続2着のジムベルグ、春に完全燃焼しきれなかったファイアーダンサー、名手嶋田功騎手の腕を買われたタケムスメのあたりだったが、彼女たちのオッズはいずれも700円から800円台であり、ダイアナソロンの対抗馬というにはかなり心もとない存在だった。
・・・だが、そうしたメンバーの中でも、キョウワサンダーは単勝5030円の14番人気にとどまった。重賞での実績としてサファイヤS2着があるとはいえ、しょせん繰り上がりでは、ファンへのアピールに欠ける。しかもその後の戦績は、条件戦の布引特別で3着、ローズSで8着に惨敗・・・。これでは「底が見えた」または「サファイヤSがはまっただけ」と見られてしまうのも仕方のないことだった。
そんな雰囲気の中で樋口騎手は、レース前からある作戦を心に決めていた。・・・もっとも、14番人気の一介の条件馬が決めた作戦に関心を払うものなど、当事者以外にはいるはずもなかったけれども。