マックスビューティ列伝~究極美伝説~
1984年5月3日生。2002年2月27日死亡。牝。鹿毛。酒井牧場(浦河)産。
父ブレイヴェストローマン、母フジタカレディ(母父バーバー)。伊藤雄二厩舎(栗東)
通算成績は、19戦10勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、オークス(Gl)、
神戸新聞杯(Gll)、4歳牝馬特別(Gll)、ローズS(Gll)、オパールS(OP)、チューリップ賞(OP)、
紅梅賞(OP)、バイオレットS(OP)。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
『究極美伝説』
日本の中央競馬においては、皐月賞、日本ダービー、菊花賞というそれぞれ条件の異なる3つの世代限定Glが「三冠レース」として位置づけられ、世代最強馬を決する戦いとして高い格式を誇るとともに、多くのファンの関心と注目を集めてきた。
ただ、これらのレースは建前としては「牡牝混合戦」とされているものの、事実上は牡馬しか出走しないのがほとんどである。これらのレースを牝馬が勝った例を探してみると、日本競馬の長い歴史の中でも5頭が6勝を挙げただけで、それも1947年にトキツカゼが皐月賞、ブラウニーが菊花賞を勝った後、2007年にウオッカが日本ダービーを勝つまでの約60年間にわたって、牝馬による三冠レースの制覇は途絶えている。
中長距離戦で牡馬と牝馬を同じレースで走らせた場合、牡馬が圧倒的に有利であるというのが、長らく競馬界の常識だった。そこで、牝馬たちのために用意された独自路線が、出走資格を牝馬に限定した、いわゆる「牝馬三冠」である。桜花賞、オークス、秋華賞からなる「牝馬三冠」は、牝馬による「三冠」挑戦があまりに難しいことから、一流牝馬たちのローテーションとしても承認されており、世代別牝馬チャンピオン決定戦として定着している。
ところで、「三冠」をすべて制した「三冠馬」は過去8頭が出現しているものの、「牝馬三冠」をすべて制した「牝馬三冠馬」は6頭にとどまっている。中央競馬が範をとった英国競馬では秋華賞にあたるレースが存在せず、日本で「牝馬三冠」が成立したのは1970年にビクトリアCが新設された(76年にエリザベス女王杯に改称、96年にはエリザベス女王杯の古馬開放に伴って秋華賞に改編)後であることを考慮に入れたとしても、皐月賞、日本ダービーを勝った二冠馬は16頭(三冠馬を除く。2021年まで)いるのに対し、桜花賞、オークスを制した牝馬二冠馬は9頭(牝馬三冠馬を除く。2021年まで)しかいないという差は、明らかに有意な差であるといわなければならないだろう。
牝馬が牡馬に比べて体調管理が難しく、消長も激しいことは、多くのホースマンたちが口を揃えるところである。その名を青史に刻む多くの牝馬たちが、あるレースでは圧倒的な強さを示しながら、やがて牝馬ならではの困難につきあたって敗れることで、そんな評価の正しさを心ならずも証明してきた。1987年の桜花賞、オークスを制した二冠牝馬マックスビューティも、そんな系譜に名を連ねる1頭である。
マックスビューティ・・・日本語で「究極美」という意味の名前を持つその牝馬は、日本史上初めてにして20世紀唯一の牝馬三冠馬・メジロラモーヌが牝馬三冠戦線を戦った次の年の牝馬三冠戦線に現れ、メジロラモーヌ以上の安定感と破壊力をもって戦い、そして勝ち続けた。桜花賞、オークス、そしてそれらのトライアルまで勝ちまくったマックスビューティが、秋に8連勝でエリザベス女王杯のトライアルレースであるローズS(Gll)を制した時には、誰もがマックスビューティの歴史的名馬たることを信じ、彼女が前年のメジロラモーヌに続く三冠牝馬となることを疑わなかった。それは、もはや歴史の必然ですらあった。
ところが、栄光とともに戴冠するはずだったエリザベス女王杯で、マックスビューティの連勝と伝説は終わりを告げた。その後の彼女は、それまでの栄光の日々とは対照的に長い不振にあえぎ、苦しみ続けた。競走生活が終わってみると、彼女が頂点に君臨した期間は1年にも満たず、さらにその範囲も、世代限定の牝馬三冠戦線のみにすぎなかった。そんな彼女の戦いの光景は、私たちに牝馬の消長の激しさを改めて思い知らせるものだった。
・・・それでいてなお、マックスビューティがその短い期間に放った輝きは、私たちを魅了するものだった。「究極美」というその名に恥じない美しさ、そして強さを兼ね備えた彼女の牝馬三冠戦線は、競馬界の歴史、そしてファンの記憶に残る。なればこそ、彼女の「その後」もまた、競馬の難しさを表すエピソードとして語り継がれる。
「名は体を現す」ということわざがある。今回のサラブレッド列伝では、その名によって自らを現し、そして自らの戦いによってその名を表現し尽くした名牝マックスビューティについて語ってみたい。
『名門の冬』
マックスビューティの生まれ故郷は、浦河の酒井牧場である。消長が激しいサラブレッドの生産牧場の中で、創業が1940年まで遡る酒井牧場は、浦河で指折りの名門牧場だった。先代の酒井幸一氏が指揮を取っていた1961年には、生産馬のハクショウが日本ダービー、チトセホープがオークスを勝ち、牡牝それぞれのクラシックで世代の頂点を独占するという栄光の歴史を持ち、後にも93年のエリザベス女王杯(Gl)を制し、さらに交流重賞の黎明期に交流重賞10連勝という金字塔を打ち立てた「砂の女王」ホクトベガを輩出している。
ただ、マックスビューティが出現する直前期は、酒井牧場にとって、そんな栄光の狭間となる「冬の時代」だった。75年に父の幸一氏から牧場の実験を譲り受けたのは酒井公平氏だったが、代が替わった途端、牧場の生産馬が走らなくなったのである。名門牧場の看板の重み、先代が残した輝かしい実績・・・それらとは対照的に、その後の酒井牧場の生産馬による重賞制覇は途絶えていた。
このままではいけない。なんとかしなければいけない。酒井氏は悩み苦しんだ末、様々な手を打った。繁殖牝馬はもちろんのこと、牧場の土をすべて入れ替えたりもした。・・・それでも結果は出なかった。酒井氏の耳に入ってくるのは、周囲の
「酒井牧場は、跡取りのせいでダメになった・・・」
という声ばかりだった。酒井氏は、やがて自分の馬産に自信を失っていった。そんな矢先に突然酒井牧場に降り立ったのがマックスビューティであり、自信を失いかけた酒井氏、そして衰えゆくかに見えた名門牧場を救う光明だった。
『意味不明の配合』
父、ブレイヴェストローマン。母、フジタカレディ。マックスビューティの血統自体は、決して目立ったものとはいえない。ブレイヴェストローマンは、後には種牡馬としての評価も定まって高く評価されるようになったとはいえ、当時は輸入初期の産駒が走り始めたばかりで、自らの競走成績から、奥行きの無いマイラーと思われていた。トウカイローマンがオークスを勝ったことでブレイヴェストローマン産駒の実力と距離適性が再評価され始めたのは、マックスビューティが生まれた84年のことである。
マックスビューティの母フジタカレディも、自らは未勝利馬だった。この牝系の血統表からアルファベットの馬名にたどりつくには、1918年生まれの9代母Silver Queenまで遡らなければならない。ちなみに、8代母のタイランツクヰーン産駒には「幻の馬」トキノミノルがいる。
だが、そんな一族も、トキノミノル以降は鳴かず飛ばずとなり、それ以降の彼女の一族の代表馬は、1972年のAJC杯をレコード勝ちし、ヒカルイマイが勝った71年の日本ダービーで5着に入った・・・というよりは、吉永正人騎手の騎乗とともに「後方ぽつん」の追い込み馬として知られたゼンマツ、80年から83年にかけて重賞を3勝したフジマドンナが出た程度だった。
これほど古くから日本にあった系統でありながら、ここまで活躍馬が出ないというのは、もはや運やめぐり合わせの問題とは言い難い。この血統は、活力が失われつつある一族と評価される・・・というよりは、評価される価値すら認められていなかった。
もともとは青森屈指の名門である浜中牧場で生まれたフジタカレディだったが、そんな彼女に目をつけ、彼女を管理していた松山吉三郎師に頼み込んで牧場に連れてきたのが酒井氏だった。上の2頭は期待外れで未勝利に終わったフジタカレディだったが、酒井氏は彼女への期待を捨てきれず、この年はマルゼンスキーと交配する予定にしていた。
ところが、フジタカレディがいざ発情した当日、マルゼンスキーは予約がいっぱいで種付けができない状態だった。そこで急きょ交配されることになったのが、ブレイヴェストローマンだった。
後になって、なぜこの時数いる種牡馬の中からブレイヴェストローマンを選んだのかを聞かれた酒井氏は、
「分かりません。あの時の僕は、何を考えていたんでしょうかねえ」
と首をひねっている。酒井氏は、本来フジタカレディにプレイヴェストローマンは体型的に合わないと考えており、最初に配合を考えた際には、真っ先にリストから外したほどだった。
マックスビューティをはじめとする活躍馬を輩出した後、馬産地では酒井氏が配合について独自の理論を持っていると評価されるようになり、浦河近辺の馬産農家で、配合に困って酒井氏に相談したことがあるという者は少なくないという。そんな酒井氏が選んだ、意味不明の交配から名馬が現れるのだから、競馬は深遠である。