マックスビューティ列伝~究極美伝説~
『垣間見た夢』
酒井牧場でのマックスビューティは、繁殖牝場としての期待も高く、初年度からリアルシャダイと交配されて自らの「跡継ぎ」となる牝馬を生んだ。マックスビューティの「長女」マックスジョリーは、1993年牝馬クラシック戦線へと参戦し、桜花賞、オークスの母娘制覇こそならなかったものの、そのいずれも3着と好走し、自らが受け継いだ血の底力を示した。
さらに、マックスジョリーを出した後もノーザンテースト、ダンシングブレーヴといった名種牡馬と交配されてオープン級の産駒を送り出し続けたマックスビューティだったが、酒井氏は、そんな彼女を欧州馬産の中心地のひとつであるアイルランドへと送り込み、現地の牧場で繁殖生活を送らせることにした。
「マックスビューティなら、世界のGl牝馬にだって決して負けないはず・・・」
自らが生み出したマックスビューティという傑作への自負と誇りが、酒井氏を冒険へと駆り立てた。欧州に渡った後は、現地でサドラーズウェルズ、カーリアンといった世界的種牡馬と交配し、そこで生まれた子馬を外国産馬として走らせる・・・それが、酒井氏の夢だった。
1993年冬に日本を発ったマックスビューティは、その後アイルランドでカーリアン、サドラーズウェルズと交配され、それぞれの仔を1頭ずつ生んだ。欧州の後はアメリカに連れていくという話もあったものの、マックスビューティが渡欧している間にトニービン、サンデーサイレンスら世界的名馬が次々と日本で種牡馬入りしたという事情もあり、彼らと交配との交配を目指して96年春に帰国した。マックスビューティの日本での最初の使命は、世界的に評価を得つつあったサンデーサイレンスとの交配だった。
『その最後の世界』
しかし、マックスビューティの運命が反転したのも、このころのことだった。まず、期待をかけたサンデーサイレンスとの交配の結果は、不受胎だった。そして、97年4月22日には、マックスビューティの娘であり、やはり繁殖牝馬として酒井牧場に繋養されていたマックスジョリーが、出産時の事故で急死してしまった。
特にマックスジョリーの死は、酒井牧場にとって大きな痛手だった。マックスビューティの繁殖牝馬としての実績は、表面的には順調だったが、生まれてくるのが牡馬ばかりという問題があった。マックスビューティをアイルランドに送り出したのも、サドラーズウェルズやカーリアンの血を引く繁殖牝馬がほしいという思いもあったのに、これも生まれたのは牡馬ばかりで、気づいてみれば、マックスビューティ産駒の牝馬は、マックスジョリー1頭だけである。
その大切な「跡取り娘」が、よもや母より先に逝ってしまうとは、酒井氏も予想しない悲劇だった。このままでは、酒井氏が夢を託したマックスビューティの牝系は途絶えてしまう。
それなのに、アイルランドから帰国したマックスビューティの子出しは、急速に悪くなっていった。98年に1年遅れでサンデーサイレンス産駒を出産したものの、その後のマックスビューティは不受胎が続いた。身体の方にも少しずつ、しかし確実に衰えの影が忍び寄っていた。
2001年春、マックスビューティは生涯で8頭めとなるコマンダーインチーフとの子を出産したが、その後蹄葉炎を発症してしまった。蹄葉炎・・・それは、マックスビューティの母フジタカレディも死の際に発症した、彼女の一族にとっての業病である。
社台ホースクリニックに入院して療養生活に入ったマックスビューティだったが、酒井氏はその時、既に彼女が助からないであろうことを覚悟していたという。マックスビューティの入院中に、彼女とサンデーサイレンスとの間に生まれ、酒井氏が期待を込めて送り出していたプラチナサンデーが、レースへの出走を果たすことのないまま蹄葉炎で死亡した・・・という悲報も、彼女の運命を暗示していた。
そして・・・2002年2月27日、運命の日はやってきた。蹄の血管にほとんど通わなくなり、ついに自力で立ち上がることもできなくなったマックスビューティに、安楽死の処置がとられたのである。1987年の牝馬三冠戦線に輝いた名牝マックスビューティは、こうして18年の生涯を閉じた。
マックスジョリー、そしてマックスビューティの相次ぐ死によって滅亡の危機に瀕したマックスビューティの血だが、いまのところは健在である。マックスビューティが残した産駒たちは、オープン級までは出世するものの、結局重賞を勝つには至らなかった。しかし、マックスジョリーが命と引き換えにこの世に遺したデインヒル産駒・・・希代の名牝を出した牝系のただ1頭の希望となったビューティズソングは、偉大な祖母の血を絶やさないよう大事をとって未出走のまま繁殖入りし、酒井牧場で繁殖生活を送っている。
彼女の産駒からは、2015年のチューリップ賞(Glll)などを制し、阪神JF(Gl)で3着に入ったたココロノアイなどが出ている。また、彼女が生んだ多くの牝馬たちが繁殖入りすることで、偉大な祖母の血統を21世紀に伝える役割を果たしている。
牝馬三冠の歴史の中でもファンに特に強い印象を残した「究極美伝説」が、果たして彼女の子孫たちの中から、甦る日がいつか来るのだろうか。
『生き続けるもの』
かつて、桜花賞を8馬身差、オークスを2馬身半差で圧勝し、「牝馬三冠は確実」といわれた名牝がいた。その名前と容姿ゆえに「究極美」と称えられ、その世代の中で図抜けた強さゆえに、一時は「史上最高の名牝か」とまで謳われた彼女は、最後の関門となったエリザベス女王杯でまさかの2着に破れて牝馬三冠の夢かなわず、やがて落日の道を歩むこととなった。牝馬三冠馬という大魚を逸した彼女の名前と記憶も、時の流れ、そしてその死により、次第に過去のものとなりつつある。さらに、21世紀に入ってからは、メジロラモーヌに次ぐ三冠牝馬たちがようやく次々と現れるようになったことで、実績としては彼女を超える存在が増えていることも確かである。
とはいえ、マックスビューティが牝馬三冠戦線で示した輝きと存在感は、歴史上特筆されるに値するものである。20世紀の牝馬三冠戦線において唯一マックスビューティを上回る存在だったメジロラモーヌや、21世紀になってようやく次々と現れるようになった牝馬三冠馬たちですら、個々のレースだけを見れば、マックスビューティには及ばないかもしれない。
多くの名牝たちをしてなお比肩し得ない印象を刻んだマックスビューティが「究極美」の名に恥じない存在だったことに、疑いの余地がない。
「美」というものは、いつの世も等しく人間たちの心をとらえてやまない。歴史において絶世の美女と呼ばれた女性たちは、あまたの権力者たちを狂わせることでいくつもの大国を傾け、時には自らの運命すら滅してきた。後世に残る芸術作品の多くは、それを生み出す芸術家たちの、日常と狂気の境目、時には完全に狂気に足を踏み入れた領域の中から生み出されてきた。そんな記憶と伝説を、人々は究極美と呼ぶ。
名馬たちもまた、私たちに多くの記憶、そして伝説を刻み、その積み重ねが、やがて歴史という大河を織りなしていく。その流れの中に溶けていくことなくなお特別な輝きを放ったマックスビューティというサラブレッドが示した輝きは、それが短い期間のものでしかなかったとしても、忘れ去ってしまうのは、余りに惜しい。
どんなに新しい記憶と伝説が重ねられていっても、決して色あせないものがある。そのひとつが、マックスビューティの87年牝馬三冠戦線である。過去を知り、今を生きる私たちは、そんな彼女が決して単なる伝説ではなく、現実の存在だったことを知っている。彼女が残した「究極美伝説」は、彼女自身の晩年の不振、新たな名馬たちの活躍のいずれによっても傷つけられることなく、ファンの中に生き続ける。