『影』

　田原騎手の制止にも関わらず、マックスビューティは向こう正面･･･淀の坂登りでじわじわと上がっていった。本来ならば、動くには早すぎるタイミングである。しかし、動かなければ、かかることによる消耗は避けられない。遅い流れの中で馬との折り合いをつけきれない田原騎手は、第3コーナー付近で勝負に出た。

　田原騎手は、マックスビューティにゴーサインを送った。鞍上の縛りから解放されて、マックスビューティは動く。下り坂で中団から前方へと進出していくマックスビューティに、場内は沸いた。これこそ、大観衆が待っていた光景だった。究極美に最も似合う、あるがままの走り。これこそがマックスビューティ。その向こう側にある、牝馬三冠はもうすぐそこだ･･･。

　マックスビューティは、第4コーナーでは早くも先頭をうかがう位置まで上がってきた。直線に入ってからも、その脚色は衰えない。直線に入ってから間もなく、突き抜けんばかりの勢いで先頭に立つ。

　いったん先頭に立つと、たちまち後続とは2、3馬身の差がついた。場内アナウンスが

「マックス、強い！強い！」

と叫んだその実況は、この時点では間違いなく真実だった。

　しかし、この時田原騎手の左鞭が、彼女に何度も飛んでいた。それも、鬼気迫る鞭である。それまでマックスビューティに鞭が振るわれるのは気合をつける程度のもので、仕掛けどころで2、3回も使えば十分だった。そんなマックスビューティへの鬼気迫る鞭の連打･･･それは、田原騎手が、マックスビューティの深刻な危機、それまで経験したことのない危機の到来を感じていることを示していた。彼はこの時、マックスビューティの背後に迫る影、マックスビューティの牝馬三冠を揺るがす敵の襲来の気配を、確かに感じとっていた。

『美女を撃つ才媛』

　田原騎手が感じていた気配は、間もなく現実のものとなった。馬群を突き抜けたはずのマックスビューティに、馬群の中からもう1頭の影が迫る。その影は、マックスビューティが後続につけていた差をあっという間に詰めてきた。その影は、4番人気のタレンティドガールだった。

　タレンティドガール･･･彼女のこの日までの戦績は、8戦3勝だった。オークスで3着に入った実績はあるものの、勝負どころでほぼ同時に仕掛けたマックスビューティにあっという間に置き去りにされ、二冠制覇を脅かすことさえできなかった。前走のクイーンSでも、ストロングレディーの3着に敗れている。

　ただ、そんな彼女に他の馬にない魅力があるとすれば、その血統だった。彼女は千代田牧場のチヨダマサコを母とし、2週間前に天皇賞･秋(Gl)を制したばかりのニッポーテイオーの半妹だったのである。タレンティドガールがその実績の割に高い単勝1230円の4番人気という支持を集めたのも、その血統によるところが大きかった。

　田原騎手は、レース前にこのタレンティドガールについて、意味深長なコメントを残している。牝馬三冠最終章を前にして、田原騎手のもとには、希代の名牝の情報を取ろうと競馬記者たちが次々と押しかけていた。その時にある記者が

「怖い馬は？」

と尋ねた時、田原騎手は

「タレンティドガールかな･･･。でも、2000までの馬か」

と答えていたのである。

　タレンティドガールの兄であるニッポーテイオーは、その安定した戦績ゆえに、当時の実力ナンバーワン古馬という呼び声も高かった。しかし、そんな彼は距離適性に関しては限界があり、この年も2400m以上の大レースであるジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)には見向きもしなかった。タレンティドガールがそのニッポーテイオーの妹であることを考えると、田原騎手の「2000までの馬」という論評も、決して慢心とはいえなかった。

『止まらぬ運命』

　しかし、現実には、2400mのエリザベス女王杯で、タレンティドガールが鬼脚を繰り出し、マックスビューティに迫っていた。

　この日、タレンティドガールの鞍上を託された蛯沢誠治騎手は、敵をマックスビューティただ1頭に見定め、ずっとマックスビューティを見ながら競馬を進めてきた。違ったのは、マックスビューティが早めに動いた時に、こちらは脚をなくさないように、と仕掛けを遅らせたことである。この時の判断が、早く仕掛けたマックスビューティを追い詰める末脚につながっていた。

　タレンティドガールは、マックスビューティに迫っていった。マックスビューティの牝馬三冠をほんの数秒前まで確信していたはずの場内からは、信じられないという驚愕と悲鳴が上がった。田原騎手が、マックスビューティの闘志を引き立て、場内の異様な雰囲気を鎮めるべく、鬼哭の鞭を振るう。だが、肝心のマックスビューティに、それに応えるだけの余力が残っていない。運命の時だけが、刻一刻と迫っていた。