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シンコウウインディ列伝~数奇なる初代ダート王~

『黄昏』

 アンタレスSと帝王賞の後に脚部不安を発症したシンコウウインディは、長い休養生活を余儀なくされた。

 約2年間の休養を経て、ようやく安田記念(Gl)で復帰を果たしたシンコウウインディだったが、14番人気で13着とまったく勝負にならなかった。その後ダートに戻ったものの、灘S(OP)5着、関越S(OP)6着・・・。そして、船橋の日本テレビ盃(交流Glll)4着を最後に、現役を引退することになった。

 こうしてシンコウウインディは、通算17戦5勝、フェブラリーSを含む重賞3勝という戦績を残して競走生活を終えた。

種牡馬入りしたシンコウウインディだったが、その頃には彼の種牡馬生活をバックアップするはずだった馬主の安田氏が、それどころではなくなっていた。90年代にシンコウウインディだけでなくシンコウラブリイ、シンコウキング、シンコウフォレストなどGl馬を次々と輩出した「シンコウ軍団」だったが、この頃には馬主の本業が不振に陥り、業績が急速に悪化しつつあった。結局2001年には馬主業から撤退して「シンコウ軍団」自体が消滅し、2003年1月には会社も破産決定を受けている。

 もっとも、生産部門はシンコーファームとして分離・独立し、オークス馬レディパステルを出すなどの実績をあげている。しかし、マーケットブリーダー化した新体制の下で、種牡馬としての人気や主流からはかけ離れたシンコウウインディのバックアップどころではなくなっていたことも事実である。シンコウウインディは、産駒自体を約20頭程度しか送り出すことができず、シンコウウインディ産駒がJRAでの勝利を挙げることはなかった。

 種牡馬としては成功できなかったシンコウウインディだが、功労馬、そしていわゆるアテ馬として長寿を保ち、2022年7月時点でなお存命である。

『そして、次世代へ・・・』

 フェブラリーS以外の重賞はGlllを2勝しただけで、しかもそのうちひとつは繰り上がり優勝、もうひとつは同着優勝であること、そして比較対象が、彼の直前に交流重賞を荒らしまわったライブリマウントやホクトベガ、そして彼の直後に統一グレード制のもとで絶対王権を築いたアブクマポーロやメイセイオペラとなりがちなことからすると、シンコウウインディが「ダートのチャンピオンホース」と呼ばれるには、存在感が足りないというのも、仕方のないことなのかもしれない。

 しかし、2歳時のセリで890万円だったシンコウウインディが引退までに稼いだ賞金は、約1億8000万円にのぼる。シンコウウインディが競走馬として稼いだ賞金は、同じセリで最高値がついた父ダンシングブレーヴ、母マックスビューティの良血馬、競走名チョウカイライジンを約1000万円上回っている。そして、JRAがダート競馬に本格的に取り組むきっかけとなった統一グレード制の黎明期に走り、初めてGlに格付けされたフェブラリーSを制し、また「ダート三冠」のすべてで上位に入ったという彼の功績は、賞金額のみで表現し尽くせるものでもない。

 そして、シンコウウインディのフェブラリーS優勝が、思わぬところでダート界の歴史を築いたことも、忘れてはならない。

 シンコウウインディの父であるデュラブは、決して評価の高い種牡馬ではなかったが、シンコウウインディがフェブラリーSで優勝したことでその価値が上がり、産駒も以前より高く売れるようになった。そこでシンジケート会員たちは、酒井氏に対する謝礼の意を込めて、デュラブの種付け株を1株余計に与えることを決めた。

 しかし、最初に記載した通り、酒井氏のサラブレッド生産は年間5、6頭にすぎない。この頭数では血統構成も限られていて、デュラブ産駒ばかりを生産するわけにもいかない。そこで使い道を考えていたところ、酒井氏のところに

「近所のある牧場が、デュラブをつけたがっているけれど、株が手に入らないので困っている」

という話が持ち込まれた。そこで酒井氏がその牧場にデュラブの種付け株を貸すことにしたため、その牧場は、念願のデュラブをつけることができたという。・・・こうして生まれたのが、後に無敗のまま南関東三冠、そしてジャパンダートダービー(統一Gl)を制した南関東四冠馬トーシンブリザードである。

 種牡馬としては成功できなかったとしても、このような数奇な形で名馬を送り出すことがあるのも、競馬の奥深さと言えよう。JRA初代ダート王によって切り拓かれた歴史は、様々な形で今もなお紡がれ続けていくのである。

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