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シンコウウインディ列伝~数奇なる初代ダート王~

『異変』

 こうして幕を開けた、記念すべき第1回ユニコーンSの決着は、誰も予想できない形でつくことになる。

 この日のレースは、圧倒的な人気にふさわしく、バトルラインの一人舞台となった。序盤から好位につけたバトルラインは、勝負どころの第4コーナーを迎えるころには馬なりで進出を開始し、直線で後続を突き放していった。

 これに対して、シンコウウインディも中団で待機し、バトルラインと時を同じくして進出していった。しかし、直線に入ってもバトルラインとの差を縮めることはできず、約3馬身ほど遅れた2番手でゴールするのがやっとだった。・・・バトルラインは、強かった。

 ところが、バトルラインの「一人舞台」は、それだけにとどまらなかった。バトルラインの「1着入線」は明白だったものの、彼が第4コーナーで外に膨れた際に近くにいた馬を跳ね飛ばし、周囲の馬たちが大きく混乱させられたことにも、多くのファンが気づいていた。

 審議の結果、バトルラインは他馬の進路妨害によって、10着に降着となった。・・・そして、バトルラインに代わってこのレースの勝者とされたのが、2着で入線したシンコウウインディだったのである。

『悲しき表彰台』

 シンコウウインディにとって、この日の結果は、記念すべき重賞初制覇となった。しかも、第1回ユニコーンSの覇者としてその名を歴史に刻み、さらには「ダート三冠」の第一冠を制したことにより、その後の三冠レースへの出走も確実になった。それどころか、彼はこの時点で唯一「ダート三冠馬」の資格を持つ存在となったのである。

 ・・・しかし、人間たちにとって、この日の「勝利」は満足できるものではなかった。レースの後、岡部騎手は

「今日はたなぼたかな」

とコメントした。岡部騎手、田中師とも、この日のレースについて

「あれ(バトルラインの進路妨害)がなかったとしても、バトルラインとの差を少し縮めるのが精一杯だっただろう」

と語っている。

「繰り上がるにしても、2着や3着(に繰り上がった)なら素直に喜べたかもしれないのに・・・」

という彼らは、表彰台の一番高い場所に、最も強い馬が立つべき場所として特別な意味を見出していた。自分の馬が最強ではないことを見せつけられながら、それでも彼らは、表彰台に立たなければならない。

 かつて、1991年の天皇賞・秋(Gl)で、天皇賞春秋連覇を目指す大本命としてレースに臨んだメジロマックイーンが5馬身差で1着入線しながら、18着に降着となった事件があった。日本で最も古い伝統と高い格式を持つレースで、降着の結果として第104代天皇賞馬となったプレクラスニー陣営も、

「表彰台に上がるのがつらかった」

というコメントを残したことがある。最も晴れやかであるべき表彰式の場で、「勝者」ゆえの屈辱を味わわなければならなかった人々の思いは、似通ったものとなってくるのかもしれない。

『皐月賞馬の挑戦』

 ユニコーンSの後のシンコウウインディは、既定路線通り、スーパーダートダービーへと進むことになった。当事者の気持ちをさておけば、繰り上がりでも上積みされる本賞金は優勝扱いなので、出走自体はもはや確実である。

「(ダート)三冠を目指します」

と宣言するシンコウウインディ陣営は、いきなり泥を塗られてしまった栄光を取り戻すために「ダート三冠」第2ラウンドとなるスーパーダートダービーを戦わなければならなかった。

 「三冠」とは、3つの異なる時期、競馬場、距離、馬場、天候といった条件の中で戦い抜くことによる選抜の過程である。この年のスーパーダートダービーも、ユニコーンSとは異なる展開を迎えた。「ユニコーンS優勝」が幻に終わり、雪辱を期していたはずのバトルラインが、脚部不安を発症して戦線を離脱したのである。・・・ユニコーンSの結果から、シンコウウインディの最大のライバルとなるはずだった存在は、ゲートにたどり着くことすらないまま、消えた。

 しかし、消える者もいれば、新たに現れる者があるのもまた道理である。バトルラインと入れ替わる形で、新たなライバルがダート三冠戦線に名乗りをあげてきた。・・・それは、春にJRAのクラシック三冠のひとつ、皐月賞(Gl)を制したイシノサンデーだった。

 ユニコーンSの段階では、芝の上級馬から見向きもされていないかに思われた「ダート三冠」だが、こと秋になってくると、事情は変わってくる。芝の上級馬たちがJRAのクラシック三冠路線において秋の目標とするべき菊花賞(Gl)は、芝3000mという春とは異質の長距離レースで、長距離適性がない馬たちにとっては厳しい。

 イシノサンデーは、芝2000mの皐月賞を制したものの、芝2400mの日本ダービー(Gl)では6着、さらに秋もセントライト記念(Gll)4着、京都新聞杯(Gll)5着と、2000mを超えるレースでは、ことごとく敗れたことで、彼を管理する山内研二師に、長距離適性を疑問視されていた。イシノサンデーの父サンデーサイレンスはアメリカのダート競馬で活躍していたこと、イシノサンデー自身も降雪のためダートコースに変更されたジュニアC(OP)を圧勝していることに注目した山内師は、菊花賞ではなくダート三冠路線で新境地を拓こうと考え、当時としては異例のローテーションを組んだのである。

 そもそもダート交流重賞戦線が全国的に注目される大きなきっかけとなったのは、エリザベス女王杯馬ホクトベガの参戦と快進撃だった。そして今またダート路線への参戦を表明した皐月賞馬の選択は、始まったばかりの「ダート三冠」を盛り上げるものとして歓迎された。こうした選択肢こそ、ダート路線への注目の向上には欠かせない・・・!

 しかも、新たに参戦するJRA勢は、イシノサンデーだけではなかった。ユニコーンSでの出走状況が嘘のように、京都4歳特別(Glll)を勝ったザフォリア、名古屋優駿(交流重賞)を制したチアズサイレンス、グランシャリオC(交流重賞)で優勝したヒダカリージェントといった重賞実績馬たちが、スーパーダートダービーへの参戦を表明したのである。それは、「ダート三冠」が1戦遅れで開幕したかのようだった。

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