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ダイイチルビー列伝~女は華、男は嵐~

『名門伊藤雄二厩舎』

 ダイイチルビーの買主は早くから決まっていたものの、彼女自身の馬体の問題点から管理調教師はなかなか決まらなかった。そんなダイイチルビーを見るために荻伏牧場を訪れたのは、栗東の伊藤雄二調教師だった。

 伊藤師は、1966年に28歳で厩舎を開業し、それ以降順調に勝ち鞍を積み重ねてきた、関西を代表する調教師の一人である。当時の代表的な管理馬として既に77年の皐月賞馬ハードバージ、87年の二冠牝馬マックスビューティなどの名前が挙がっていたが、90年代以降は円熟期に入り、多くのGl馬を輩出している。

 伊藤師は、もともとダイイチルビー、そして「華麗なる一族」とは縁がなかった。ハギノトップレディを管理したのは、「伊藤師」とは言っても伊藤修司調教師であり、血縁関係は特にない。従って、本来ならば伊藤「雄」師のところにダイイチルビーの話が回ってくることもなかったはずだったが、この日伊藤師は、彼女を買うことになっていた馬主から頼まれ、期待感を持って馬を見に来たのである。

 だが、ダイイチルビーを見せてもらった伊藤師は、彼女の馬体を見て

「こりゃアカン、ケイバ馬にもなれん」

と思ったという。蹄の形がこれでは、競走馬としてデビューする前に故障してしまうだろう。ハギノトップレディとトウショウボーイの間の子供という血統、そして1億円とも言われる購買価格を聞いた時に感じた憧れと昂ぶりはたちまち冷め、期待は失望に変わった。ダイイチルビーを預かること自体、一度は断ろうと思った。

『鳴くまで待とう』

 そんな伊藤師がダイイチルビーを預かることになったのは、ダイイチルビーが実際に走る姿を見たからだった。ダイイチルビーの話は断ろう。一度はそう決めた伊藤師だったが、その後、断るにしてもせめて走る姿くらいは見てからにしよう・・・そう考えて、ダイイチルビーが実際に走る姿を見せてもらうことにした。

 ところが、伊藤師が目の当たりにしたダイイチルビーの走りは、他の馬とはスピード、パワーとも桁が違うものだった。走法も馬自身が蹄に負担のかからないような走り方を知っていた。

 伊藤師は、これを見て考えを変えた。この走り方なら、壊れないで競馬場にいけるかもしれない。うまくやれば、とてつもない馬になる可能性さえ秘めている・・・。

 伊藤師は、ダイイチルビーを自分の厩舎で預かることに決めた。ただ、この馬を預かる際に、馬主に対してはひとつの条件を付けた。

「この血統は、化骨が遅いので、じっくり待ってみましょう。3歳のうちは競馬には使いません」

 伊藤師は、馬主に対してダイイチルビーの馬体が丈夫になるのをじっくり待つこと・・・具体的には、デビューを4歳にずれ込ませることをあらかじめ了承させた。
 
 この血統は化骨が遅い・・・この言葉は、「華麗なる一族」の戦績を見ると奇異にも感じられる。ダイイチルビーの母ハギノトップレディは3歳の函館デビューでいきなり日本レコードをたたき出し、祖母イットーも最優秀3歳牝馬に輝いたことからすれば、むしろ早熟の血統と思われがちだったからである。
 
 だが、伊藤師は、直接自分で管理していたわけではないイットーやハギノトップレディのことも、注目される良血馬としてひそかに観察していた。イットー、ハギノトップレディとも活躍自体は早かったが、化骨の遅さに伴う脚部不安にも悩まされていた。それでも早くから活躍していたのは、彼女たちの絶対能力が抜けていたからにほかならない。自分がこの血統を預かる時には、もっとじっくりと成長を待つ使い方をしたい・・・そんな思いは、ダイイチルビーが抱えた爆弾もあいまって、馬主に対する注文となって現れた。

『箱入り娘』

 伊藤厩舎への入厩は決まったダイイチルビーだったが、伊藤師と馬主の約束を反映して、その調教は意図的に緩やかなペースにとどめられた。同期の馬たちが次々とトレセンへ旅立つころになっても、ダイイチルビーにお呼びはかからなかった。

 ダイイチルビーが伊藤厩舎に実際に入厩したのは、3歳秋・・・それも、冬の足音がひたひたと近づく11月に入ってからだった。彼女が入厩する1週間前、伊藤厩舎は桜花賞馬シャダイカグラをエリザベス女王杯(Gl)に送り出したものの、レース中に故障を発症して最下位の20着で入線し、競走生命を失っていた。脚部不安の噂がささやかれていた厩舎の看板が、予想どおりに・・・といっては語幣もあろうが故障してしまい、厩舎全体が暗い雰囲気に沈む中、ダイイチルビーはやって来た。同じ過ちは繰り返すまい。そんな思いが彼女に注がれたであろうことは、想像に難くない。

 ダイイチルビーは、入厩後の調教も慎重に時間をかけてなされた。馬主から了解をとっておいたとおり、彼女が3歳のうちに競馬場へ姿を現すことはなかった。ダイイチルビーがデビューしたのは、4歳2月のことである。持って生まれた才を最大限に生かすためとはいえ、3歳までのダイイチルビーは蝶よ花よと大切に育てられ、さながら「箱入り娘」のようだった。

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