TOP >  年代別一覧 > 2000年代 > ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~

ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~

『復帰』

 年が明け、2004年になって間もなく、ネオユニヴァースのローテーションが発表された。それはステップレースを叩いて天皇賞・春(Gl)、宝塚記念(Gl)を使い、秋には欧州遠征を決行、凱旋門賞(国際Gl)を目指す、というものだった。3歳秋以降は不完全燃焼の結果が続いているだけに、このローテーションには首をひねる向きも少なくなかった。だが、それは同時に、どんなに誇りを傷つけられたとしても、今後のネオユニヴァースが目指すものは、日本のサラブレッドの模範となるべき王道でなければならない、という意思表示だったのかもしれない。だが、それは三冠以上に過酷な道でもあった。

 天皇賞・春戦線は、阪神大賞典(Gll)でリンカーン、ザッツザプレンティの4歳世代がワン・ツーフィニッシュを決め、日経賞(Gll)でも人気薄のウィンジェネラーレがゼンノロブロイの足元をすくうという番狂わせはあったものの、やはり4歳世代のワン・ツーフィニッシュで決着している。そのため、ファンや評論家の間では

「今年の天皇賞・春は4歳世代が圧倒的に優勢」

という声が広がりつつあった。そんな雰囲気の中で、ネオユニヴァースの復帰戦は産経大阪杯(Gll)とされた。実績的には、間違いなく「強い4歳世代」の大将格たる、前年のクラシック二冠馬の出陣。鞍上には、既にイタリアがクラシックシーズンに入っているにも関わらず駆けつけたデムーロ騎手がいる。Gl勝ちがあるネオユニヴァースは、この日59kgの斤量を背負うことにはなるものの、ライバルの重賞4勝の実績馬バランスオブゲーム、前年のエリザベス女王杯馬アドマイヤグルーヴ、宝塚記念2着の実績を持つツルマルボーイらと名前だけで比べるならば、ネオユニヴァースの優位は動かない。

 ・・・その一方で、ネオユニヴァースは、磐石というにはあまりに深い不安も同時に抱えていた。日本ダービー以来勝利から見放され、失墜しつつある権威と自らの矜持を賭けて臨む休み明け初戦の重圧は、ネオユニヴァース陣営にとって、決して小さなものではなかった。それでも、日本代表として凱旋門賞を目指すという目標を持つ以上、こんなところで負けることは許されない。否、ありえない。産経大阪杯は、ネオユニヴァースの今後の鍵を握る重要なレースだった。

『深まる混迷』

 産経大阪杯のスタートでわずかに立ち遅れたネオユニヴァースだったが、その後すぐに挽回すると、5番手の好位から競馬を進めた。

 ネオユニヴァースの前方には、自分の形であるマイペースの逃げに持ち込めばしぶといマグナーテンがいる。また、後方には安定した差しを持つアドマイヤグルーヴ、展開がはまれば凄まじい末脚を発揮するツルマルボーイらがいる。状況は、文字どおりの前門の虎、後門の狼である。それでもネオユニヴァースは、あくまでも王者の競馬ですべてのライバルを迎え撃とうとしていた。彼らのライバルとは、この日の出走馬だけではない。天皇賞・春を目指す全てのサラブレッドが、彼のライバルなればこそ、中途半端な競馬は許されない

 ネオユニヴァースの道中は、彼らの自信と覚悟に恥じないものに見えた。第3コーナー付近から徐々に進出を開始し、第4コーナーでは2番手まで押し上げ、直線入口で満を持してマグナーテンに馬体を併せにいく。

「勝った・・・」

 ネオユニヴァースの優れた脚色に、この時は誰もがそう思った。

 ところが、マグナーテンが予想外の粘りを見せたのは、その後だった。一気にかわそうとしたネオユニヴァースに対し、マイペースの逃げで脚を温存していたマグナーテンは、そこからしぶとく二の脚を使い、激しく抵抗したのである。8歳のセン馬による逆襲が二冠馬を脅かし、いったん前に出たネオユニヴァースは、その直後にマグナーテンの再逆転を許した。ネオユニヴァースとマグナーテンは、完全に馬体を併せて激しい叩き合いを展開する。

『勝利の陰で』

 約200mにわたる死闘の果て、最後にアタマ差を制したのは、ネオユニヴァースだった。残り100m地点でいったんマグナーテンに先行を許しながらも再び差し返した底力はさすがのもので、デムーロ騎手は

「次もきっといいレースができる」

と期待を託し、瀬戸口師も

「いい形で次に行ける」

と夢を語った。・・・彼らの視線の先には、天皇賞・春(Gl)があった。彼らの思いは、半年の時を越えて再び淀の坂へと帰り着く。ネオユニヴァースは、同じ京都で、ただ距離が200m短いだけの菊花賞で敗れたことによって、三冠の夢を逸した。その敗北は、いわば彼の失墜の象徴である。ならばこそ、今も続く悪夢を振り払うために、ネオユニヴァース陣営が天皇賞・春に賭ける思いは強く、深かった。公約どおりに凱旋門賞の一次登録も済ませたネオユニヴァースは、天皇賞・春に賭けていた。

 とはいえ、産経大阪杯での勝利は、着順をそのまま楽観として受け止めていいものでもなかった。結果が幸先のいいものとなったことは事実だが、もともと2000mの産経大阪杯は、3200mの天皇賞・春よりもはるかにネオユニヴァースに有利な戦場である。トライアル・・・それも天皇賞・春を直接争うであろう一流馬たちのほとんどが阪神大賞典か日経賞にまわった中で、8歳のセン馬に対して強いられた彼らの苦戦は、戦場をより過酷な舞台へ移し、さらにトライアルで直接対決を迎えることのなかった強者たちが集結する本番では、そのまま不安材料へと転化する。

 矜持と不安。相反するふたつの感情が混じり合う中で、ネオユニヴァースは第129回天皇賞・春を迎えた。

『最後の戦い』

 2004年5月2日、第129回天皇賞・春のゲートは、18頭のサラブレッドたちによってすべて埋められた。その中には、ネオユニヴァースの姿もある。半年前に、歴史に残る三冠の栄光を永遠に失ったその舞台で、彼は再び戦いに挑む。

 ファンの支持は、前哨戦の中で距離が最も本番に近い阪神大賞典を制したリンカーンに集まっていた。重賞制覇は阪神大賞典が初めてだったとはいえ、それに先立って既に菊花賞、有馬記念で2着に入った実績は、単勝220円の1番人気に支持されるに十分なものとされた。

 二冠馬ネオユニヴァースは単勝410円の2番人気にとどまった。「4歳四強」のうちザッツザプレンティ、ゼンノロブロイは上回ったものの、リンカーンには差をつけられた形である。かつてははるかに格下だったダービー8着馬リンカーンに、前哨戦のひとつを制してもなお遠く及ばぬその人気こそ、彼の傷ついた権威と矜持の象徴だった。失われた名誉は、この日勝つことでしか取り戻せない。瀬戸口師も、デムーロ騎手も、ネオユニヴァース陣営は誰もがそのことを知っていた。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
TOPへ