ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~
『敗北』
ネオユニヴァースの最後のレースは、10番人気の5歳馬イングランディーレの豪快な逃げで始まった。レース開始直後に横山典弘騎手が馬を押して先頭を奪っても、騎手たちはさほど気にもとめない。ザッツザプレンティ、リンカーン、ゼンノロブロイ、そしてネオユニヴァースは、イングランディーレにペースメーカーとしての意味以上を認めることなく、「4歳四強」を互いに牽制しあうことばかりに気をとられていた。
ネオユニヴァースの位置どりは、後方から5、6番手だった。イングランディーレが形成するスローペースにかかり気味になりながら、4歳四強の中では最も後ろから競馬を進める。必ずしも直線一気の末脚で勝負するタイプでないネオユニヴァースにとって、その位置どりは、早めに脚を失うことを恐れたもので、脚を余す危険性はさほど想定しない乗り方だった。
だが、1週目は4、5馬身だったイングランディーレと後続の差が、2周目の第1コーナー過ぎからますます広がり始め、向こう正面の途中で10馬身以上となった時点で、彼らは気づくべきだった。この日のレースは、この時点で既に異常なものだったのである。
イングランディーレの大逃げを導いた横山騎手は、1999年の菊花賞ではセイウンスカイで大逃げを図り、大本命のダービー馬スペシャルウィークらを圧倒した経験がある。
「腹を決めたノリは、怖い」
と言われつつ、日本人騎手ですら忘れたころに発動してあっと言わせるその法則を、デムーロ騎手が知らなかった、あるいは忘れていたとしても、それが彼のせいとは言えない。ただ、横山騎手のあまりに見事な騎乗の前にレースの流れを見誤ったことは、彼とすべての騎手の敗北にほかならなかった。
『終焉のとき』
本来レースの流れが落ち着くはずの地点で後続との差をさらに広げたイングランディーレは、京都名物の上り坂で、一時は後続に20馬身近い差をつけた。この期に及んで、デムーロ騎手はようやくこの日の異常を察知した。第3コーナー付近でネオユニヴァースが上がって行くと、同様に周囲の何頭かが進出を開始し、レースはようやく動き始める。
しかし、ネオユニヴァースの脚が続いたのは、直線入口までだった。馬群から抜け出すはずの直線で、ネオユニヴァースの脚は止まった。イングランディーレが2着ゼンノロブロイに7馬身差をつけて圧勝したレースで、ネオユニヴァースが存在感を示すことはついになかった。
「なぜ伸びなかったのか、さっぱり分からない。直線に入ったところで完全に止まってしまった。3200mは長いのかもしれない・・・」
レースの後で、デムーロ騎手はそう嘆いた。だが、勝ったイングランディーレから1秒9も遅れた10着という結果は、あまりに無惨なものだった。ネオユニヴァースが勝つためには、イングランディーレの大逃げの危険さに気づくのがあまりに遅すぎた。だが、彼らは他の馬に比べて早く気づいたがゆえに、遅すぎた無理な進出に追い込まれ、直線を待たずに脚を失う結果となったのかもしれない。
そして、この日はネオユニヴァースの最後のレースとなった。競馬界の王道を歩み、一度は三冠に王手をかけた二冠馬の最後の戦いとしては、あまりに無念の残る一戦だった。
『そして、新時代へ』
天皇賞・春での大敗後も、宝塚記念出走を目指して調教を続けていたネオユニヴァースだったが、約1ヶ月後に右前脚の球節骨折と浅屈腱炎が発覚した。
最初は再起に意欲的だった瀬戸口師だったが、ネオユニヴァースの症状の深刻さは、彼らから希望を奪うに足りるものだった。球節骨折はヒビが入った程度だったものの、浅屈腱炎は重症で、最低でも全治9ヶ月、登録していた凱旋門賞どころか年内のレースは絶望という診断だった。ただでさえ競走能力への悪影響が甚だしい屈腱炎で、それも重症となれば、残された結論はひとつしかなかった。
秋競馬が始まりを告げる頃、ネオユニヴァースの現役引退と種牡馬入りが正式に発表された。通算成績は13戦7勝、重賞は皐月賞、東京優駿を含む5勝。2年間で約6億1000万円の賞金を稼いだネオユニヴァースの戦いの終わりだった。
ネオユニヴァースは、2005年春から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を送った。2002年に死亡したサンデーサイレンスの後継としての期待に加えて牝系にNorthern Dancerに代表される主流血統を持たない配合のしやすさも追い風となった彼は、総額12億円のシンジケートも組まれて社台スタリオンステーションで種牡馬入りし、種付け頭数は初年度から228頭、247頭、251頭と種牡馬として順調なスタートを切った。
種牡馬としてのネオユニヴァースは、初年度産駒から2009年皐月賞馬アンライバルド、日本ダービー馬ロジユニヴァースという2頭のクラシック馬を送り出し、さらに翌10年には皐月賞、有馬記念、さらに11年ドバイワールドC(国際Gl)を制したヴィクトワールピサを輩出している。ヴィクトワールピサについては、有馬記念とドバイワールドCをデムーロ騎手とのコンビで制しており、デムーロ騎手は父子とも大きなレースの栄光を共にしたことになる。
また、国内のGlには手が届かなかったものの、香港のクイーンエリザベス2世C(国際Gl)を制したネオリアリズム、通算戦績こそ30戦2勝で未勝利戦と500万下のはなみずき賞を勝っただけながら、14年菊花賞(Gl)、15年有馬記念(Gl)、16年ジャパンC(国際Gl)とGlで3回、14年京都新聞杯(Gll)、神戸新聞杯(Gll)、15年京都大賞典(Gll)、16年日経賞(Gll)も含めて重賞で7回も2着に入った「史上最強の2勝馬」サウンズオブアースも、ネオユニヴァース産駒である。
そんなネオユニヴァースのサイヤーランキングでの成績は、2014年の6位が最高で、10傑に6回入ったというものである。これは立派であるとしか言いようがない水準だが、初年度から2年目の代表産駒の成績を見ると、若干見劣りするように見えてしまうのがネオユニヴァースの悩みどころだったかもしれない。2016年にレックススタッドへ移動した後も、以前ほどではないもののそこそこの人気を集めたネオユニヴァースだったが、2021年3月8日、種付け中の事故が原因で死亡した。とはいえ、競走馬を引退した後のネオユニヴァースは、種牡馬としては実り多き人生を送ったというべきであろう。
『後生へ伝えること』
ネオユニヴァースが3着に敗れた菊花賞から2年後の2005年10月23日、京都競馬場のスタンドは菊花賞史上最多となる13万6000人の大観衆に埋め尽くされ、その前で大本命馬が圧勝を飾った。春に無敗のまま皐月賞、東京優駿を制し、秋も神戸新聞杯を勝って菊花賞へと駒を進めたディープインパクトが、94年のナリタブライアン以来の11年ぶり6頭めとなる三冠を達成したのである。無敗のままの三冠達成となると、84年のシンボリルドルフ以来21年ぶり2頭めの偉業だった(後にコントレイルも達成)。
その日は競馬界がディープインパクト一色となったのはもちろん、一般ニュースもその快挙を大きく伝えた。近年有力3歳馬の一部が秋は菊花賞でなく天皇賞・秋へ向かう動きがあり、そのため欧州各国での「三冠」の衰亡の動きと重ねて、わが国でも「三冠の危機」がささやかれていたが、この一連の狂想曲は、21世紀においても「三冠」の輝きが衰えていないことを示してくれた。
見事に三冠を成し遂げることで三冠の偉大さを示したディープインパクトと違って、ネオユニヴァースは2003年のクラシック戦線の主役として二冠を達成しながら、菊花賞で敗れて三冠馬の称号を得ることはできなかった。だが、私たちは忘れてはならない。新世紀の競馬界に初めてクラシック三冠という王道を甦らせ、私たちにクラシック三冠の意義を再認識させたのは、まぎれもなくネオユニヴァースの功績である。確かにネオユニヴァースはその最後の段階で敗れて夢を果たせなかったが、選別の結果として敗者が生まれるからこそ、勝者はより美しく輝く。三冠を目指し、敗れた彼の戦記もまた、クラシック三冠の歴史そのものなのである。
日本競馬は、草創期に英国競馬の2000ギニー、ダービー、セントレジャーという「三冠」を模範として取り入れて「クラシック三冠」という王道をつくりあげた。その王道は、英国でセントレジャーが廃れ、「三冠」という概念が形骸化した後も確固として引き継がれ、今日まで日本競馬の繁栄を支え続けている。
20世紀最後の年に生まれたネオユニヴァースは、「三冠」という王道に挑み、そして敗れた。その王道を成し遂げることは、あまりに過酷で困難である。だが、そうでなければ王道と呼ばれる意味はない。それが困難なものであればあるほど、それを成し遂げることはもちろんのこと、それに挑むことの意味もより重いものとなる。
だからこそ、新世代の星たちよ、願わくば知ってほしい。過酷な王道に挑むことの美しさを。その王道の果てにある物語だけが持つ重みを・・・。
新世紀の競馬界に王道を甦らせ、クラシック三冠の意義を再認識させたのは、まぎれもなく彼の功績。新世代の星たちよ、願わくば知ってほしい。過酷な王道に挑むことの美しさを…