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ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~

『凡庸なる始まり』

 社台ファームの生産馬の中でそう目立つ存在と見られていなかったネオユニヴァースは、社台サラブレッドクラブの募集馬として走ることになった時の募集価格も、総額7000万円にとどまった。これは一般的な馬と比べれば十分に高額だが、当時のサンデーサイレンス産駒の牡馬の相場を考えれば、群を抜いた価格ではない。ネオユニヴァースと同じ春に生まれた馬たちが上場された2000年のセレクトセール当歳市場を見ると、「3億2000万円の馬」として話題となった「フランクアーギュメントの00」ことカームをはじめ10頭ものサンデーサイレンス産駒が、1億円以上で落札されている。また、セレクトセールには出されず、ネオユニヴァースと同じ社台サラブレッドクラブの募集馬とされたダンシングオンの募集価格も、ネオユニヴァースの3倍近い、総額2億円だった。

 そんなネオユニヴァースが入厩することになったのは、栗東の瀬戸口勉厩舎だった。かつてオグリキャップの管理調教師であったことがあまりにも有名な瀬戸口師だが、社台ファームとの関係では、82年の鳴尾記念馬マルブツウィナー、89年の中日新聞杯勝ち馬トウショウアロー、00年の小倉3歳S勝ち馬リキセレナーデが挙げられる程度であり、そう深いものとは言えない。もともと高額な生産馬を特定の厩舎に入れる傾向が強かった社台グループの傾向からすれば、ダンシングオンが入厩した森秀行調教師、ブラックカフェが入厩した小島太調教師(もっとも、後者は馬主との関係もあるが)などとのつながりの方がよほど深い。

 果たして、瀬戸口厩舎に入厩したばかりのころのネオユニヴァースは、サンデーサイレンス産駒らしい気性の荒さで周囲の手を焼かせていたという。特に一番目立ったのは、時と場所に構わず突然立ち上がるというクセだった。

 とはいえ、同期でひと足早くデビューした1勝馬と一緒に走らせると互角の走りを見せることから、瀬戸口師にも

「そこそこには走るだろう」

という目算はあった。・・・また、ネオユニヴァースに対する期待とは、その程度のものであった。実際には、その1勝馬が後の朝日杯FS勝ち馬エイシンチャンプだったが、エイシンチャンプ自身も血統的に過小評価されていた当時では、そのことの意味に気づく者などいようはずもなかった。

『雌伏』

 11月の京都開催の、芝1400mでの新馬戦でデビューすることになったネオユニヴァースは、騎手として福永祐一騎手を迎えることになった。瀬戸口師は福永騎手の師匠である北橋修二調教師と同郷の鹿児島県出身で、厩舎も隣同士にあったため、非常に親しい関係にあった。そのため、瀬戸口師は以前から福永騎手を厩舎の主戦騎手として起用しており、ネオユニヴァースの鞍上についても彼に白羽の矢が立ったのである。

 福永騎手は、初めてネオユニヴァースの調教に騎乗した後、

「この馬、凄いですよ!Gl級ですよ!」

と興奮を隠さなかったという。ネオユニヴァースの当時の評価からすれば大げさに思われた彼の反応だが、その正しさは、ネオユニヴァースの実績によって証明されてゆく。

 デビュー戦を迎えたネオユニヴァースは、単勝250円の1番人気に応えて初陣を飾った。レース内容も、着差こそ1馬身半差ではあったものの、終始余裕を持って2番手から競馬を進め、勝負どころで差し切るという横綱競馬であり、今後に期待を持たせるに十分なものだった。

 福永騎手とのコンビでデビュー戦を迎えたネオユニヴァースは、単勝250円の1番人気に応えて初陣を飾った。レース内容も、着差こそ1馬身半差ではあったものの、終始余裕を持って2番手から競馬を進め、勝負どころで差し切るという横綱競馬であり、今後に期待を持たせるに十分なものだった。

 だが、続く中京2歳S(OP)でも1番人気に支持されたネオユニヴァースは、そう早くもないペースを好位で追走しながら、中京の短い直線で後続に、それも2頭に差されるという失態を犯し、僅差とはいえ3着に敗れた。この日優勝したホシコマンダーは、その後1勝もすることなくターフを去っている。・・・各地で次々と「ダービー候補」が名乗りをあげる中、こんなに早い段階で「底を見せた」ネオユニヴァースは、世代の先頭集団から一度は脱落してしまったかに見えた。続く白梅賞(OP)でハッピートゥモロー、ウインクリューガーに競り勝って2勝目を挙げたものの、相手関係は強いとみなされず、大向こう受けするような派手な勝ち方でもなかったため、彼の評価を大きく上げるには至らなかった。

 クラシックの季節を前に、ネオユニヴァースの戦績は3戦2勝、3着1回となった。通常の基準ならば、上出来の数字である。だが、世代の一線級との対戦でもないのに着差は小さく、レースに余裕もまだない。またレース中に口を割って行きたがることもあって、競馬そのものが粗かった。

 そんなネオユニヴァースの次走がきさらぎ賞(Glll)に決まった時、そのレースが関西におけるクラシックの登竜門とされているからといって、世代の一流半の馬がGlllで重賞に初めて挑むということ以上の意味を見出したファンは、ほとんどいなかった。

『如月の名乗り』

 ネオユニヴァースが重賞初挑戦の舞台に選んだレース・きさらぎ賞は、かつてダイコーター、ヒカルイマイ、キタノカチドキといったクラシックの主役たちを続々と輩出し、クラシック戦線を占う上で重要な意味を持つレースとされていた。もっとも、78年に後の菊花賞馬インターグシケンがこのレースを勝った後、勝ち馬たちはクラシックの栄光から遠ざかり、90年にハクタイセイが勝つまでの間、このレースの勝ち馬からクラシックホースが出ることはなかった。

 そんな空白の中でいつしか存在感が薄れつつあったきさらぎ賞だったが、風向きが変わり始めたのは、96年にダービー馬ウイニングチケットの弟で無敗のクラシック候補として注目を集めていたロイヤルタッチが、このレースを始動戦に選んだころからだっただろうか。ロイヤルタッチは結局皐月賞、菊花賞での2着が最高で、クラシックを手にすることはできなかった。しかし、彼に続いて98年にはスペシャルウィーク、99年にはナリタトップロードというスターホースたちがこのレースを勝ちあがり、そして後にはクラシック勝ち馬に名を連ねたことで再びその価値を高めたきさらぎ賞は、クラシックに直結するレースとして再度注目を集めるようになっていた。

 そんな伝統のレースで1番人気を集めたのは、通算成績2戦1勝、前走のシンザン記念(Glll)で2着に入ったばかりのマッキーマックスだった。2番人気もシンザン記念(Glll)の勝ち馬サイレントディールにさらわれ、ネオユニヴァースは単勝800円の3番人気にとどまっている。・・・この人気順は、当時の彼の位置づけを顕著に物語っている。

 この日の京都競馬場は馬場が荒れており、馬たちにとって走りづらい足場となっていた。ネオユニヴァースも先頭をうかがう勢いで好スタートを切ったものの、その後に位置を大きく下げて、馬群の中団まで退いていった。それまでいつも好位からの競馬を進めてきたネオユニヴァースにとって、中団から差す競馬はこの日が初めてであった。

 不慣れな競馬を強いられたネオユニヴァースにとって、この日のレースは決して易しいものではなかった。しかも、第4コーナーではすぐ内にいた馬がカーブを曲がりきれず、そのあおりを受ける形で自らも大きく外に振られてしまった。・・・京都芝コースの勝負どころで、ネオユニヴァースと先頭の差は大きく広がる。

 しかし、ネオユニヴァースが粘りを見せたのは、それから後だった。馬場の真ん中まで振られたネオユニヴァースは、不屈の闘志と末脚で他の馬たちを飲み込んでゆく。彼が外へと振られている間に内を衝いて一気に上がってきたサイレントディールに一度は並ばれながら、そこから二の脚を使って突き放し、ついには半馬身差で斥けて先頭のままゴールへと駆け込んだ。朝日杯フューチュリティS(Gl)の勝ち馬エイシンチャンプ、同2着馬のサクラプレジデント、ラジオたんぱ杯2歳S(Glll)を制したザッサザプレンティらが一足早くクラシック戦線に名乗りを挙げた中で、ネオユニヴァースも遅ればせながら、この勝利によってその戦列に加わったのである。

「走るたびに強くなっている。まだまだ強くなりますよ」

 福永騎手は、レースの後にそう語っている。・・・だが、福永騎手とネオユニヴァースの別れの時は、もう間際に迫っていた。

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