ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~
『海が割れる』
ネオユニヴァースに思いもかけぬ僥倖が訪れたのは、その直後のことだった。彼らが絶望とともに第4コーナーを回って直線に入った直後、彼らの進路を完全にブロックしていた馬の壁に、突然わずかなほころびが生じたのである。
それまで、ネオユニヴァースの前にはラントゥザフリーズがいて、エースインザレースがいた。また、外側もダイワセレクション、ザッツザプレンティによって完全に封じ込められているかに見えた。・・・だが、この時先行していたエースインザレースが内によれ、ザッツザプレンティがすぐに反応できなかったためにできあがった、左前の馬1頭分の空間を、デムーロ騎手は見逃さなかった。
エースインザレースとザッツザプレンティは、この日はチキリテイオーを逃げさせたことを除いて、終始積極策を採ってきた。だが、この時点でクラシック第一冠を制する力を身につけていなかった2頭は、ここで力尽きて脱落し、彼らの失速の後に、ネオユニヴァースの進路が残った。
・・・それは、まるで啓示にも似た光景だった。かつて、古代ユダヤの預言者であるモーゼは、ヘブライの民を率いてエジプトを脱出しようとしたが、背後に追っ手のエジプト軍が迫り、目前には遙かに広がる海という絶体絶命の状況に陥った。しかし、モーゼの祈りと神の奇跡によって突然海がふたつに割れ、モーゼとヘブライの民たちのための道が開けたという。旧約聖書に記された逸話をも連想させる、奇跡にも似た一瞬だった。
デムーロ騎手は、迷う間もなくその空間にネオユニヴァースの馬体をねじこんだ。迷っていては、開かれた海の道はたちまち閉ざされる。だが、彼らは間に合った。脚が残ってさえいれば他の馬たちが突っ込んできたであろう道を奪い取り、ネオユニヴァースは前に出る。
『大逆転』
わずかな空間に飛び込んだネオユニヴァースが態勢を立て直してみると、そのすぐ外で馬体を併せていたのは、直進してきたサクラプレジデントだった。混戦の中で最後に残ったのは、1ヶ月前にスプリングSで火花を散らしたばかりの2頭だった。
だが、前回敗れたサクラプレジデントは、今度は前回のままの彼ではなかった。道中で折り合いを欠いた競馬だったがゆえに、力を出し切ったネオユニヴァースの猛攻に耐え切れなかったのがスプリングSならば、この日の立場はまったく逆である。道中を折り合って完璧に競馬を進めてきたのがサクラプレジデントならば、馬群に閉じ込められて絶望に沈み、奇跡にも似た偶然を頼ってようやく抜けてきたのがネオユニヴァース。
同じ相手に2度続けて敗れるならば、それは運ではなく、実力の差となる。世代最強を目指すサラブレッドならば、この馬には、この馬にだけは負けてはならない。騎手こそ前走の武幸四郎騎手から田中勝春騎手に替わってはいたが、陣営の思いは田中騎手にも引き継がれていた。
抜き放つ末脚は刃の如く、併せた馬体から散るものは、目に見えぬ火花。馬群から突き抜けたふたつの黒い輝きが速さを増し、己以外の輝きはいらぬとばかりに激しくせめぎあう。・・・そして、わずかに前に出るのは外、サクラプレジデントの方だった。
だが、その時田中騎手の頭をよぎったのは、
「そんなはずはない・・・」
という焦燥だった。ネオユニヴァースとサクラプレジデントの決着は、スプリングSと同じく直線へと持ち越された。それはいい。問題は・・・なぜ、ついて来れるのか?ネオユニヴァースとサクラプレジデントに、実力差はない。ミスがあった方が負ける。スプリングSでは、彼らにミスがあったから負けた。ならば、今度ミスをしたのは、ネオユニヴァースのはずではないか。なのに、なぜ・・・?
田中騎手は、皐月賞におけるネオユニヴァースとの決着を、スプリングS以上にぴったりと馬体を併せての叩き合いへと持ち込んだ。小細工なしの一騎打ちほど、ライバル同士の差を直接に浮き立たせる展開はない。それなのに、ネオユニヴァースは、スプリングSのサクラプレジデントのように崩れる気配がまったくない。サクラプレジデントの渾身の追い込みにも、ネオユニヴァースはほとんど遅れることなくついてきている。この馬の末脚は、無尽蔵なのか?一気に前に出るはずだった最後のスパートを受け切られてしまっては、もう次の手は・・・ない。
そして、デムーロ騎手の鞭が飛ぶ。それで、ネオユニヴァースとサクラプレジデントの間のわずかな差・・・アタマ差か、ハナ差かも分からないような薄い壁は、突き破られた。今度はネオユニヴァースが前に出る。やはりアタマ差くらいだろうか。しかし、サクラプレジデントはそれを返せない。・・・2頭の均衡は、ここに破れた。
『奇跡の一冠』
ネオユニヴァースとサクラプレジデントは、2頭並んで直線を駆け、そしてゴールした。だが、前に出ているのがネオユニヴァースであることは容易に見て取れた。
田中騎手は、ゴールの瞬間、自らの敗北を悟っていた。乗り違えたとは思わない。だが、足りなかった。届かなかった。わずかにアタマ差、しかし決定的なアタマ差により、第63代皐月賞馬はネオユニヴァースに決した。
デムーロ騎手とネオユニヴァースにあって、自分とサクラプレジデントになかったものは、何だったのか。すぐに出るはずもない問いを思って肩を落とした田中騎手は、突然の予期せぬ衝撃に、我に返った。
・・・彼の視線の向こう側には、興奮気味になにやら口走っている「世界の名手」、24歳にして騎手界の名誉をほしいままにする青年の姿があった。
「・・・ミルコに頭を叩かれたのか」
田中騎手がゴールの瞬間敗北を悟ったように、ゴールの瞬間に勝利を確信したデムーロ騎手は、左手で高らかにガッツポーズを取るだけにとどまらず、興奮のあまり、すぐ隣でうなだれて肩を落としていた田中騎手の頭をポーンと叩いたのである。・・・田中騎手がその事実を理解するまで、しばらく時間がかかったという。
デムーロ騎手は、それほどに興奮していた。イタリアダービー制覇をはじめ欧州各地で修羅場をくぐり、年齢に不相応な栄光をも手にしてきた彼をしてなお、世界一といっていい競馬人気を誇る日本のクラシック・レースで繰り広げたサクラプレジデントとの死闘と、その結果手にした栄光は、絶大な価値を持っていた。
「もっといい位置を取りたかったが、外からどんどん来られて思ったより後ろになった。第4コーナーでペースが落ちて横一線になったときは、前にスペースがなかったので、一瞬、脚を余して負けると思った」
デムーロ騎手にとって、この日のレースは会心の騎乗ではなかった。彼はネオユニヴァースに対して絶対の自信を持っていたが、その信頼を油断とし、内枠、スローペースから導き出しうる今日の可能性の想定を怠り、その結果勝てるレースを落としかけた。そのことはデムーロ騎手自身が認めるところだし、瀬戸口師も
「内でもがいていたので、ダメかなと思いましたね。(エイシン)チャンプの方がいい感じで上がってきたから、こっちの方が勝つのかな、と・・・」
と、第4コーナーで一度ネオユニヴァースをあきらめかけたことを明かしている。
デムーロ騎手を背信から救い、瀬戸口師らに栄光をもたらしたものは、ネオユニヴァースが見せた、世界の名手による最上級の信頼をもさらに上回る競馬だった。
「神様が、最高のプレゼントをくれました。こんな日(4月20日は、イタリアでは復活祭として祝日とされている)にGlを勝たせてくれた神様とファンに感謝したい」(デムーロ騎手)
「Glは、運がないと勝てないと思っています。第4コーナーを回った時に、1頭分だけ空いた、あれがこの馬の運だと思う」(瀬戸口師)
この日、形では1番人気に応えて勝ったネオユニヴァースだが、その実、この勝利は人外の何かによって導かれた末の勝利だった。しかし、03年のクラシック第一冠を制したことは厳然たる事実である。同じ2000年に生まれたサラブレッドの中でただ1頭、三冠馬となる資格を持ち越した彼の戦場は、皐月賞から、日本競馬の最高峰・日本ダービー(Gl)へと移っていった。