ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~
『夢の東京優駿~1988年の記憶~』
東京優駿・・・1932年に目黒競馬場で開催された「東京優駿大競走」にルーツを持ち、「日本ダービー」という呼称で競馬ファンに親しまれ、かつ敬われてきた日本競馬最高のレースは、戦争による中断をはさみながらも歴史を重ね、2003年は70回目の節目の年であった。皐月賞を1番人気で制したネオユニヴァースは、そんなレースに大本命として挑むことが、もはや宿命づけられていた。史上19頭めとなる皐月賞、日本ダービーの「二冠」達成・・・それがダービーに挑むネオユニヴァースの至上命題だった。
もともと英国競馬のレース体系を取り入れて構成された日本競馬では、「ダービー」に対するホースマンたちの思い入れが深い。加えて瀬戸口師には、「ダービー」という特別なレースをめぐる忘れ難い過去があった。
時を遡ること15年、1988年2月に1頭の芦毛馬が瀬戸口厩舎へと入厩した。この年の初頭まで笠松競馬で走り、12戦10勝、2着2回という圧倒的な強さを見せたその馬の名前は、「オグリキャップ」とい
った。
瀬戸口厩舎に入厩したオグリキャップの強さは、ファンはもちろん瀬戸口師の想像をも絶するものだった。転入初戦のペガサスS(Glll)を3馬身差で圧勝したオグリキャップは、その後も毎日杯C(Glll)、京都4歳特別(Glll)と、圧勝に圧勝を重ねた。クラシック戦線が混戦と言われた世代の中で、「地方から来た怪物」オグリキャップが最強馬候補としてその名を挙げられたことは、むしろ当然の成り行きであった。
しかし、「世代最強馬候補」であるオグリキャップの名前が、世代最強馬決定戦である日本ダービーの出走表に並ぶことはなかった。彼はJRAの馬主資格を持たない馬主の子分け牝馬から生まれたため、極めて早い時期から笠松競馬に入厩することが決まっていた。そして、笠松競馬に籍を置く限り、日本ダービーをはじめとするJRAのクラシックレースには、出走の道すらない時代だった。オグリキャップは、幼駒時代に日本ダービーをはじめとするJRAのクラシックレースに出走するために必要なクラシック登録を行っていなかったのである。
オグリキャップにクラシック登録がなされておらず、日本ダービーへの出走が許されないことについて、ファンからは
「強い馬が、どうして最高のレースに出られない」
という批判が挙がった。オグリキャップの悲劇を経てJRAが規則を改め、クラシック登録がなされていなかった馬についても、通常の登録料と比較すれば高額な追加登録料を支払って「追加登録」を行うことでクラシックレースへの出走への道が拓かれたのは、オグリキャップが引退した翌年の91年のことであった。
オグリキャップが切り拓いた「追加登録」は、幼駒時代にクラシック登録を行わなかった馬たちによるクラシック制覇・・・99年皐月賞馬テイエムオペラオー、2015年菊花賞馬キタサンブラックという歴史的名馬たちの栄光の出発点をもたらした。しかし、その成果は、礎となったオグリキャップ自身やその関係者たちには何の利益ももたらすことなく、オグリキャップの失われた時は、二度と戻らない。彼ら、そして瀬戸口師は、人が作った競馬の中で、人が作った規則による矛盾に泣いたのである。
『夢の東京優駿~15年の時を超えて~』
オグリキャップの台頭とともに渦中の人となった瀬戸口師は、オグリキャップがクラシックに出られないことについて聞かれた時は、常に
「オグリがクラシックに出られないのは、あらかじめ分かっていたことですから・・・」
「この馬には、この馬なりの道を歩ませたい」
と答え、他の誰かを批判することはしなかった。その点、同様に当時クラシックへの出走権がなかったために77年のクラシックから締め出されたマルゼンスキーの主戦騎手である中野渡清一騎手がダービー直前に
「賞金は要らない、他の馬を絶対に邪魔しないよう大外を回る、だからこの馬をダービーに出してくれ」
と叫んだようなエピソードはない。当然のことながら、瀬戸口師は、オグリキャップが日本ダービーに出走できないであろうことをあらかじめ知り、そして受け入れていただろう。だが、その内心が、表面に現れる言葉ほど平静なものであったかどうか。この年のダービーの1週間後に行われたニュージーランドT4歳S(Gll)を、馬なりのまま、しかも同年の安田記念を上回るタイムで圧勝し、その1ヶ月後の高松宮杯(Gll)で古馬をも一蹴するほどの完成度を誇ったオグリキャップを前にして、「一生に一度の最高の舞台へ出してみたい」と思わないホースマンがいようはずもない。
それから15年後、日本ダービーを前にしてこのレースに対して寄せる思いを問われた瀬戸口師は、
「ダービーは、ホースマンの夢ですから・・・」
と答えている。オグリキャップでは日本ダービー出走を果たすことができなかった瀬戸口師は、その後、オグリキャップ級はおろか、日本ダービーに上位人気で出走できるレベルの馬にも巡り会えぬまま、長い時を過ごしてきた。・・・だが、彼はついに雪辱の機会を手にした。ネオユニヴァースは、何者をもはばかることなく、皐月賞馬として堂々と日本ダービーへ挑む。瀬戸口師にとって、それは宿命的な挑戦だった。
『揃う役者』
ただ、宿命に挑むネオユニヴァース陣営には、大きな懸案があった。それは、ダービー当日にデムーロ騎手がネオユニヴァースに騎乗することができないかもしれない、という問題だった。
スプリングS、皐月賞とネオユニヴァースに騎乗し、もはや押しも押されぬ主戦騎手となっていたデムーロ騎手は、イタリア競馬の開幕に合わせ、皐月賞の騎乗を最後にイタリアへ帰国してしまった。彼に交付されていた短期免許は3ヶ月間で、帰国時も免許期間のうち1ヶ月を残していたため再来日は可能だが、デムーロ騎手がイタリアで優先騎乗契約を締結しているブルーノ・グリゼッティ調教師との関係で、再来日のためには同師の了解が絶対条件であり、それが得られなければ日本ダービーでの騎乗は事実上不可能だった。
ここで仲介に奔走したのは、ネオユニヴァースの生産者である社台ファームの総帥であり、馬主としてもグリゼッティ厩舎に馬を預けていた吉田照哉氏だったとされる。また、前年まではイタリアダービーと日本ダービーは同じ日に行われており、そのままだとどうあがいても来日は不可能だったが、この年は開催日が1週間ずれていたという幸運もあった。しばらく後に瀬戸口師のもとに入ったのは、グリゼッティ師の同意のもとにデムーロ騎手の再来日が可能になり、残る免許期間の1ヶ月を前倒しして行使したため、日本ダービー当日にネオユニヴァースに騎乗することも可能になった、という朗報だった。
デムーロ騎手の再来日が明らかになったのは、ちょうどダービートライアルが行われる時期だった。ダービートライアルは、青葉賞(Glll)では関東のリーディングトレーナー・藤澤和雄厩舎が送り込む秘密兵器ゼンノロブロイ、プリンシパルS(OP)では皇帝、帝王の血を継ぐ無敗の賢王マイネルソロモンがそれぞれ勝ち上がり、ネオユニヴァースに挑戦状を叩きつけてきた。無論、スプリングS、皐月賞ともネオユニヴァースの2着だったサクラプレジデントをはじめとする皐月賞上位馬たちも、雪辱に燃えている。しかし、ネオユニヴァース陣営の万全の布陣にもはや不可欠な存在となったデムーロ騎手の再来日は、彼らにとって勝利の方程式に必要な関数のひとつが埋まったことを意味していた。
『象徴』
第70回日本ダービーに向けて、出走予定馬たちはそれぞれの調整に専念し、迫る決戦の予感に震えていた。毎年ダービーウィークに行われる「ダービーフェスティバル」では、デムーロ騎手を除く有力馬たちに騎乗予定の騎手たちが集まってダービーへの思いのたけを語り合うが、中でも皐月賞でデムーロ騎手に頭をポカリと叩かれた田中騎手の執念は凄まじく、
「やっぱり、ミルコには負けたくない。やり返したいって気持ちはあるね」
と怪気炎をあげてファンを喜ばせた。・・・彼らの胸の内には、
「3ヶ月しかいない外国人に、日本ダービーまで勝たれてたまるか・・・」
というナショナリズム・・・というより、本能的な反発に近い感情が燃えていたことも否定できない。それも、日本ダービーが日本競馬の象徴たるレースなればこそであった。
無論、日本ダービーの重みがネオユニヴァース陣営にとっても例外ではないことは、前記のとおりである。それどころか、皐月賞馬として受けて立つ立場だけに、そして瀬戸口師の15年越しの悲願があるだけに、その重圧はどの馬よりも重い。加えてアウトサイダーであることに対する反発まで受ける立場に立ったのが、デムーロ騎手だった。
しかし、再び日本へ降り立った時、デムーロ騎手は、
「私は、ダービーを勝つためにやって来た」
と言い放った。もしネオユニヴァースのダービーがなければ、彼がこの時期に日本へ降り立つことはなかっただろう。その意味で、「ダービーを勝つためにやって来た」という彼の言葉は、誇張でもなんでもない。
「時代を創れ、君がこれからの競馬の象徴だ」(関東版レーシングダイアリー)
そんな壮大なあおり文句が最もよく似合う大本命・ネオユニヴァースとデムーロ騎手の大いなる挑戦は、ここに第二章を迎えた。