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ネオユニヴァース列伝~王道の果てに~

『混沌の渦の中で』

 2003年6月1日、東京競馬場。再び戦場へ姿を現し、大歓声によって迎えられたネオユニヴァースは、単勝260円の1番人気に支持された。クラシックの一冠で大きな不利を受けながらも奇跡的な逆転優勝を果たした皐月賞馬が次に目指すのは、97年のサニーブライアン以来6年ぶりとなる、史上19頭めとなる春の二冠達成だった。

 仕上がりは、万全だった。ダイナガリバー、タヤスツヨシ、アグネスフライトというダービー馬たちを送り出してきた社台ファームも、ネオユニヴァースの様子を見て自信を深め、過去にないほどの自信をもって本番に臨んだという。

 ただ、単勝支持率が30.5%という数字では、前評判を「ネオユニヴァースで断然・・・」とまで言い切るのはためらわれることも事実である。ライバルたちの陣営を見ると、単勝360円でネオユニヴァースに続く人気を集めたのが皐月賞2着のサクラプレジデントであり、640円のゼンノロブロイ、990円のサイレントディールまでが3桁配当である。少なくとも大衆が描いたオッズは、大本命にも死角がありうることを示していた。では、6戦5勝3着1回、03年に入ってから無敗のネオユニヴァースに残る死角とは、一体なんだったのだろうか。

 戦績だけを見ると磐石に思われるネオユニヴァースだが、ひとつひとつのレースでつけた着差は、決して大きなものではない。彼の5勝のうち2着に最も大きな着差をつけたのは、新馬戦で見せた1馬身半差にすぎない。これには

「勝ち方を知っているから、無駄な着差はつけないのだ」

という肯定的な意見もあったが、

「どこかで一歩間違えればいつ逆転してもおかしくない力の差しかない」

という見方も可能であった。さらに、ダービー前日の東京は台風の影響で強い雨が降り、前日の最終レースは、不良馬場で行われた。ダービー当日は、雨がほとんど上がったとはいえ、馬場がそうそう簡単に回復するはずもなく、ダービーも重馬場のまま行われることになった。ネオユニヴァースと他の馬たちの「紙一重の差」を逆転する要素として、この日の馬場はおあつらえ向きである。その意味で、波乱の伏線もないわけではなかった。

 この日府中のスタンドに集まった大観衆は、実に13万人。その1人1人で異なる夢、憧憬、野心、欲望。そのすべてが混じりあった大きな渦の中心に、ネオユニヴァースはいた。

『燃える府中の杜』

 ネオユニヴァースの手綱をとるデムーロ騎手が日本ダービーの舞台に立つのは、この日が初めてだった。彼は、13万人の大観衆に埋め尽くされた日本最高の競馬場の雰囲気に震えていた。

 デムーロ騎手は、前年にイタリアダービーを勝っている。だが、彼の目の前に広がる光景は、ローマのCapannelle競馬場で行われるイタリアダービーのそれとは、似ても似つかないものだったという。イタリア最高のレースとはいっても、貴族主義的な欧州競馬の中で、しかも本質的には傍流にすぎないがゆえに大衆への浸透度は低いため、02年も含めて観衆は数千人にすぎない。そんな彼の母国とはまったく異なる世界が、そこにあった。

 無論、目の前の光景に感動はしても、圧倒されるデムーロ騎手ではない。彼の手綱の下には、彼が最強と信じるパートナーがいる。

「ネオユニヴァースが、一番強い」

 その確信には、わずかな揺るぎもない。むしろ、皐月賞の時より強固になってすらいる。彼の使命は、これからのレースに勝利すること。そのために必要なものは、既に揃っている。それらを結果につなげるのが、彼がこれからなすべきことだった。

『激突』

 第70回日本ダービーは、人気薄のエースインザレースの逃げから始まった。レース前からある程度予想されていた展開だけに、深追いする馬もないまま、エースインザレースと松永幹夫騎手だけが単騎の逃げを打つ。

 エースインザレースが形成するペースは、平均ペースに見えて実はかなりの変則ペースだった。1000m通過タイムは61秒1だったが、その間の5ハロンそれぞれのラップを見ると、速いところでは11秒1、遅いところでは12秒9という数値を刻み、激しいペースの変化が馬たちの体力を削っていく展開となった。ただでさえ荒れた重馬場なのに、レース自体が厳しい展開となったことで、騎手たちの緊張感も増していく。彼らは馬の消耗を抑えるために、進路をいつもより外にとる。・・・内ラチ沿いの馬場は、前日の雨と酷使でかなり傷んでいる。そう読んでの策だった。

 だが、そのころネオユニヴァースは、馬群のやや後方にいた。皐月賞では第4コーナーで馬の壁に閉じ込められかけたネオユニヴァースだったが、この日も周囲を馬に固められ、思い切って外に出すことはできない。デムーロ騎手に全幅の信頼を寄せる瀬戸口師ですら、この時はレースを見ながら

「あんなに後ろでいいのかな・・・」
「あんなに内に入って大丈夫なのかな・・・」

と不安にとらわれたという。

 ダービーの後、ある騎手はスポーツ紙の手記に

「他の騎手には簡単にネオに勝たせてたまるか、という共通の意地があった」

と書いている。まるでネオユニヴァースの外への道をふさぐように拡がる馬の布陣は、ダービーを外国人騎手に取られまいとする日本人騎手たちの「共通の意地」の現れだったのかもしれない。

 だが、ネオユニヴァース鞍上のデムーロ騎手は、彼らとは全く違った視点から、既にひとつの仮説に至っていた。日本人騎手たちはみな、

「内は馬場が悪い」

と言って、外へ、外へと位置をとる。しかし、本当にそうなのだろうか?

 デムーロ騎手は、前日から東京で騎乗して芝の状態を確かめ、この日の第7レースの駒草賞では、インを衝いて優勝している。

「内ラチ沿いぎりぎりならともかく、2、3頭分外に出しておけば、馬場は外とほとんど変わらない・・・」

 日本人騎手たちは、彼を馬場状態の悪い内側に封じ込めているつもりだったかもしれない。だが、「封じ込め」られているデムーロ騎手だけに、本当は馬場状態が悪くない場所が見えていたとしたら・・・?

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