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バブルガムフェロー列伝~うたかたの夢~

『失敗、誤算、焦燥、そして』

 スタート直後にファンの関心を集めたのは、1番人気サクラローレルの位置取りだった。不利と言われる外枠を引き当ててしまったサクラローレルと横山騎手は、東京の芝2000mコースでの外枠スタートでは決してやってはならないミス・・・出遅れを犯したのである。

 横山騎手は、スタートの瞬間、自分のミスを自覚した。・・・だが、彼はひとつのミスによって周囲を見失い、さらなる深みに沈んでいく怖さを知っていた。競馬は、ゴールの瞬間に先頭に立っていればいい。スタートでの出遅れを無理に序盤のうちに取り返しにいくのは危険。そう判断し、後方2、3番手からの競馬を決め込んだ。

 だが、彼はその時、調教師たちが陣取るスタンドの天狗山から

「バカヤロウ!」

という罵声が飛んだ事実を知る由もなかった。その罵声は、サクラローレルを管理する境勝太郎調教師が発したものだった。

 境師は、レース前にわざわざ横山騎手に

「ある程度、前に行ってくれよ・・・」

と伝えていた。騎手出身の境師は、このコースでの外枠スタートが意味する怖さを知っていた。おまけに、この日は確固たる逃げ馬がおらず、緩やかなペースのままでごちゃつく展開が予測されている。直線で馬の壁に進路をふさがれる可能性を思えば、後方からの競馬にはあまりにも大きなリスクが伴う。そんなことは若手騎手ならいざ知らず、関東のトップジョッキーとして東京競馬場での競馬も知り尽くした横山騎手なら、当然分かっているだろう。そう信じていた。

 だが、外枠を引いたサクラローレルと横山騎手は、スタートで出遅れた上に、まるで外枠スタートでの府中2000mコースの怖さを知らないかのように、後方にどっかりと居座ってしまった。レース展開は境師の予想どおりになったにも関わらず、サクラローレルだけが、その展開の中で最もやってはいけない競馬をしているという苛立ちが、思わず「バカヤロウ」という言葉に転化したのである。

 2番人気の武豊騎手とマーベラスサンデーは、そんなサクラローレルを見て、中団にとどまった。サクラローレルがいつもどおりにもっと前で競馬を進めてくれれば別の戦い方もあっただろう。事実、武騎手は後に

「本当は、もう少し前で競馬をしたかった・・・」

と語っている。しかし、圧倒的1番人気が後ろにいる以上、その馬を意識せず競馬を進めることはできない。「サクラローレルに勝つことが天皇賞・秋を勝つこと」・・・その命題がある以上、武騎手に作戦を選択する余地はなかった。

 前半1000mの通過ラップが1分0秒3というスローペースであるにも関わらず、大本命のサクラローレルが予想外に最後方からの競馬となり、2番人気のマーベラスサンデーもそれを牽制する形で中団にとどまらざるを得なくなったこの日の流れは、予定どおりに前につけた馬・・・バブルガムフェロー、マヤノトップガンの2頭にとってはむしろ望ましいものだった。ただ、この2頭の間には、ほんの少しの違いがあった。それは、マヤノトップガンはスタート直後の4、5完歩で田原騎手が気合をつけることによって好位につけたが、バブルガムフェローは蛯名騎手が気合いをつける必要もなくその位置につけていた、ということである。この年に入ってからは相手関係が薄い宝塚記念(Gl)を勝っただけのマヤノトップガンだが、この日の馬の手応えは、それまでとは違っている。ただ、彼の目に映るバブルガムフェローは、それ以上にスムーズに競馬を進めている。

「参ったなあ…」

 田原騎手は、心の中でそうつぶやいていた。

 このように、バブルガムフェローは、後方で繰り広げられるサクラローレルの失敗、マーベラスサンデーの誤算、そしてマヤノトップガンの焦燥とは無縁のところにいた。

『栄光への道標』

 4頭の中で最も余裕を持てる立場にいた蛯名騎手は、自分自身の優位を自覚していた。彼らの前にはトウカイタロー、カネツクロスの2頭がいたものの、蛯名騎手は

「前の馬は相手じゃない。あわてずに、ライバルが来てから追い出せばいい・・・」

と決めていた。後は、時を動かすライバル・・・3頭の中で最も早く彼らに迫ってくる1頭を待つだけでいい。

 蛯名騎手が待つライバルたちのうち、マーベラスサンデーの武騎手、マヤノトップガンの田原騎手は、いずれも後ろにいるはずのサクラローレルを待っていた。だが、ようやく上がってきたサクラローレルは、第4コーナーを回るところで馬群の内へと突っ込んだ。それが、失敗だった。

 横山騎手の読みでは、進路は空くはずだった。ところが、サクラローレルを包む馬の壁は厚く、空くはずの進路がなかなか空かない。待った、というよりは焦りながらも時を溶かした末、ようやく空くかに見えた馬1頭分の空間は、なんとマーベラスサンデー、武騎手の進路と重なっていた。

 もともとその空間を狙って競馬を進めてきた武騎手は、ようやく上がってきたサクラローレルが強引にその空間へねじ込もうとする姿を見て、戦術を転換した。

「サクラローレルを、閉じ込める!」

といっても、とりあえず彼らがなすべき競馬は、変わるわけではない。想定していた競馬をすればいいだけである。ただ、競馬自体は同じでも、その競馬を持つ意味は大きく変わった。その空間を確実に取るだけで、サクラローレルは確実に窮する。

 マーベラスサンデーは、サクラローレルより一歩早く、その空間に馬体を進めた。もともと無理な体勢から突っ込もうとしていたサクラローレルは、マーベラスサンデーの登場によって再び馬群の壁の中へと押し戻される。しかも、武騎手はサクラローレル潰しの手を緩めない。マーベラスサンデーは馬群から一気に突き抜けず、サクラローレルより半馬身前でサクラローレルの封じ込めにかかった。こうしてサクラローレルは、馬群の内側に完全に閉じ込められてしまったのである。

 だが、武騎手の作戦は、「サクラローレルに勝つ」という意味では完璧な策略だったものの、「天皇賞・秋を勝つ」という意味ではどうだっただろうか。彼の作戦では、この時点で最も順調に競馬を進めているバブルガムフェローの存在が切り捨てられている。武騎手は、「サクラローレルに勝つことが天皇賞・秋を勝つこと」というレース前の命題にとらわれ、展開によってこのふたつが既に切り離されつつあることを見落としていた。

 一方、サクラローレルからバブルガムフェローに目標を切り替えたのは、マヤノトップガンの田原騎手だった。マーベラスサンデーが迫る気配を察知した彼は、もう待てないと判断した。バブルガムフェローに先に脚を使わせた方が有利だということ、蛯名騎手も彼らに先に動いてほしがっていることは分かっていたが、バブルガムフェローが前にいる以上、ここで動かなければ、もうバブルガムフェローには届かない。

 マヤノトップガンは、一気に動いた。蛯名騎手はその姿を認めることで、レースが自分の思い描いたとおりに進んでいることを確信した。他の有力馬たちが先に動く展開になれば、それまで最もスムーズに競馬を進め、脚を温存してきた利を最大限に生かすことができる。

 バブルガムフェローは、マヤノトップガンに合わせて動いた。有力馬たちの中では最後の仕掛けであり、馬の余力は十分にある。他の有力馬たちの動きのひとつひとつ・・・それが、バブルガムフェローと蛯名騎手にとっては栄光への道標となった。

『決着』

 バブルガムフェローは、マヤノトップガンを眼下に見つつ、半馬身ほど前に出た併せ馬の要領で叩き合いに持ち込んだ。こうなると、先に動いたマヤノトップガンが爆発的な脚を繰り出さない限り、バブルガムフェローの優勢は動かない。田原騎手が下したせっかくの決断だったが、その時マヤノトップガンの詰め将棋は、既に詰んでいたようである。マーベラスサンデーにも、もはや前へ突き抜ける力は残っていない。

 この時点で、バブルガムフェローの勝利に向かって綿密に組み上げられた詰め将棋をひっくり返すものがあるとすれば、それは一瞬のうちにバブルガムフェローをも差し切る一瞬の爆発的な末脚しかなかった。その可能性を垣間見せたのは、遅れてきた大本命サクラローレルだった。展開の不利と武騎手の策にはまって馬の壁に閉じ込められていたサクラローレルだったが、他の馬の脱落によってようやく進路を確保すると、出色の脚色で追い込んできた。彼らを策に陥れたマーベラスサンデーをかわし、マヤノトップガンにも迫るサクラローレルの迫力は、さすがに伝統の大一番で断然の1番人気に支持された名馬の風格があった。

 しかし、サクラローレルが失地を挽回するには、残された時間と距離があまりにも少なすぎ、バブルガムフェローが残す余力も十分すぎた。レースの終局は、蛯名騎手の思い描いたとおりとなった。バブルガムフェローは、マヤノトップガンを半馬身抑えたまま、先頭でゴールへ駆け込んだのである。それが第114代天皇賞馬バブルガムフェローの誕生の瞬間であり、鞍上の蛯名正義騎手にとっては悲願のGl初制覇だった。ステージチャンプの「幻のガッツポーズ事件」で大恥をかいた経験を持つ蛯名騎手は、春と秋という季節の違いこそあれ、同じ盾の舞台でついにその雪辱を果たしたのである。

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