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サクラローレル列伝 ~異端の王道~

『臆病者の名を受けて』

 1番人気の天皇賞・秋で悔いの残る敗北を喫したことで、サクラローレルの身辺は、急速に騒がしくなり始めた。

 まず、巷ではサクラローレルの騎手について、横山騎手からの乗り替わりの噂が流れ始めた。横山騎手の天皇賞・秋での騎乗ミスは、素人目にも分かりやすいものだったし、レース直後の境師による横山騎手の騎乗に対する痛烈な批判は、広く報じられていた。気の早いいくつかのスポーツ紙では、サクラローレルの次走での騎手を予想し始めたほどだった。

 また、秋は最初から

「天皇賞・秋の後はジャパンC(国際Gl)に出走せず、有馬記念(Gl)に直行する」

と言っていた境師だったが、天皇賞・秋の敗北を受けて、ジャパンCに出走するのではないか・・・という声もささやかれるようになった。この年のジャパンCの外国招待馬は、「史上最強」との呼び声が高かった。フランスダービーに続いて凱旋門賞で歴史的な圧勝を遂げた欧州最強馬エリシオ、欧州の中距離戦線を荒らし回るシングスピール、キングジョージ勝ち馬のペンタイア・・・。天皇賞・秋で日本最強馬の証明に失敗したサクラローレルだが、ジャパンCで勝ちさえすれば、その敗北をあがなってあまりある名声を得ることができる、というのである。

 だが、境師はやがて、こうした声に対してすっぱりと答えを出した。

「従前の予定どおりジャパンCには出走せず、有馬記念一本に目標を絞る。騎手は、横山騎手でいく」

 天皇賞・秋の敗戦後に流れた声に対し、境師は完全に耳をふさぐ形となった。

 境師のこの選択、特にジャパンC回避に対しては、世間の風当たりは厳しかった。例年よりはるかに強力なメンバーが揃った外国招待馬と、日本の総大将としてのサクラローレルの戦いを見てみたい・・・そんな思いは、誰もに共通していた。だが、その思いはかなえられない。そのことに対する苛立ちは、一部で

「ローレルは外国馬を恐れて逃げ出すのか」

という辛らつな批判として、サクラローレル陣営にぶつけられることになった。

『賭ける思い』

 サクラローレル陣営にしてみれば、ジャパンC回避はやむにやまれぬ選択だった。「天皇賞・秋~ジャパンC~有馬記念」と続く秋の古馬中長距離Gl3連戦が、競馬ファンから「王道」として認知されていることくらい、彼らも十分知っている。エリシオ、シングスピール、ペンタイアらと、彼らのサクラローレルとを戦わせ、そしてサクラローレルが世界に通用する器であることを示したい・・・。そんな思いは、彼らが一番強く持っていた。

 しかし、そんな夢の実現を阻むのは、サクラローレルの脚の状態だった。もともとの体質が弱い上、レースで手を抜くことを知らないサクラローレルは、疲労からの回復が遅く、脚部不安という爆弾も抱えている。そんな彼を天皇賞・秋から中3週のジャパンCで世界の強豪とぶつけ、さらにジャパンCから中3週の有馬記念でクラシック組を含む国内すべての強豪と決着をつける強行軍を強いることはできない。骨折で1年を棒に振った彼にとって、同じ箇所を再度骨折しようものなら、それは死につながりかねない。

 そして、境師にとって、有馬記念は「すべての世代が激突する最強馬決定戦」というイメージが強かった。そして、それまで日本ダービー2勝、天皇賞4勝の輝かしい実績を持つ境師だが、有馬記念はいまだに勝ったことがなかった。以前から

「古馬なら有馬記念が一番だ」

と漏らしていながら、騎手としても調教師としても縁がなかった有馬記念制覇の夢は、翌年2月で定年を迎える境師にとって、最後のチャンスだった。・・・そして境師は、

「サクラローレルの年内は、有馬記念一本」

と決めた。

『彼だけの王道』

 サクラローレルが出走しなかったジャパンCでは、初代秋華賞馬となった4歳牝馬ファビラスラフインが、欧州最強馬との呼び声高かったエリシオを抑え、ブリーダーズCターフ2着馬にして、後のドバイワールドC馬となるシングスピールとハナ差の死闘を演じた末、2着に惜敗していた。そんな光景を目にしていたであろう境師にも、こみあげる思いはあったにしても、そのすべてを断ち切って、「次」、すなわち有馬記念に賭けた。

 思えばサクラローレルは、4歳時も誰もが認める「王道」としてのクラシックとはついに無縁のまま終わった。そして、今もまた、皆が決めた王道を歩むことはできなかった。だが、彼には彼の王道がある。それは、他の馬と比べて出るレースが少ない分、これと決めたレースを確実に勝ち抜くことだった。

 天皇賞・秋で敗れ、ジャパンCを回避して、ただ有馬記念だけに向けた体制を整えた境師とサクラローレル陣営は、負けた時の言い訳をすべて捨てた。世間の批判を承知の上でジャパンCを回避してまで備えた有馬記念を勝てなければ、もはや「日本最強馬」を名乗る資格はない。それがサクラローレル、そして彼らなりの責任の取り方だった。

 天皇賞・秋の雪辱に燃える横山騎手とサクラローレル、そして60年間の競馬人生の中で有馬記念制覇の最後のチャンスを迎える境師にとって、第41回有馬記念は、決して負けてはならないレースとなった。

 有馬記念を前にした境師は、ネタをとろうと集まってきた競馬記者たちを相手に吹きまくった。

「日本に負ける馬はいない。有馬は絶対に勝つ!」

 専門誌やスポーツ紙は、境師の強気のコメントを面白おかしく、大々的に書きたてた。もともと「吹く」ことで有名な境師だったが、この時の境師の強気の裏側には、天皇賞・秋の雪辱への決意、有馬記念への執念、そして自らの調教師生活の最後に、日本で一番強い馬を育てた誇りを証明したいという集大成への思いが凝縮されていた。

『炎は烈火となり』

 1996年12月22日、第41回有馬記念は例年どおりに中山競馬場で開催された。14頭の出走馬の中には、当然のことながらサクラローレルの姿もあった。

 サクラローレルの鞍上には、これまでどおりに横山騎手がいた。衆人環視の中、マスコミがあきれるほどの勢いで面罵された横山騎手は、当然そのことでも傷ついたに違いない。しかし、横山騎手にはそれ以上に傷ついたものがあった。それは、大一番で自分を信頼して騎乗を依頼してくれた境師の期待、そしてサクラローレルの制覇にかけたファンの願いを無残に裏切ってしまった自分自身の誇りだった。この誇りを取り戻すには、サクラローレルで有馬記念を勝つしかない。関東リーディングジョッキーは、そのことを知っていた。境師の過激とも思えた罵声も、すべては横山騎手にこの日奮起してもらうためのものだった。横山騎手ならば、その傷を奮起に変えられるはずだ・・・。

 この日に賭ける横山騎手とサクラローレルを取り巻く他の出走馬たちは、まさに「グランプリレース」の名に恥じない素晴らしいメンバーが揃っていた。史上初めて4歳で天皇賞・秋を制したバブルガムフェローこそ欠場したものの、Gl3勝、天皇賞・秋でも2着に入ったマヤノトップガン、天皇賞・秋では4着だったものの、上位馬とほとんど差のない競馬を見せたマーベラスサンデーら天皇賞・秋組はもちろんのこと、ジャパンCでシングスピールとハナ差の2着に入って日本の実力を示したファビラスラフイン、女傑と呼ばれて久しいヒシアマゾン、芝に帰ってきた砂の女王ホクトベガ・・・。出走14頭中Gl馬が9頭を占め、さらにその他の馬にも、この年の皐月賞と菊花賞で2着に入ったロイヤルタッチをはじめ、粒が揃っていた。

 しかし、サクラローレルは、そんな出走馬たちの中で、単勝220円の1番人気に支持された。ふたを開けてみれば、これは天皇賞・秋以上の支持である。すべての退路を断って背水の陣で決戦に臨むサクラローレル陣営の、雪辱に賭ける炎のような思いは、この時さらなる炎・・・烈火となってファンを、中山競馬場を包み、焼こうとしていた。

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