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サクラローレル列伝 ~異端の王道~

『思いのままにならぬもの』

 このように、出生直後は評判が良かったサクラローレルだったが、予定どおりにいかないのが生き物の難しさである。出生直後は完璧に見えたサクラローレルの馬体だが、成長すると、そのバランスは、いつしか崩れてしまっていた。

 そして、崩れた馬体のバランスは、サクラローレルの脚にかかる負担をも増大させる結果となった。慢性的な脚部不安まで抱え込んだサクラローレルは、故障を避けるために、軽い調教しかかけることができず、仕上がりも他の馬よりかなり遅れてしまった。同期の馬たちが厩舎へと旅立つ季節になってもいっこうに仕上がってこないサクラローレルに、境厩舎はいらだっていた。

 谷岡牧場には、境厩舎から

「ローレルはどうなったのか」

という問い合わせが何度もあった。この問い合わせには、当然のことながら、はやく境厩舎へ送ってこい、という催促の意味がこめられている。しかし、そんな催促にも耳を貸さなかったのは、谷岡牧場の場主である谷岡康幸氏の信念だった。谷岡氏は、サクラローレルの入厩を急ぐことなく、馬体の成長に合わせた調教ペースを貫いた。・・・そんな谷岡氏の調教方針を支えたのは、過去に谷岡氏自身が犯したある過ちの記憶であり、彼がサクラローレルに接する時、いつも思い出すのは、彼自身がかつて生産した、名馬となりうる素質を持っていたはずのある馬のことだった。

『ある馬の思い出』

 サクラローレルが生まれる約10年前、谷岡牧場では、やはり1頭の期待馬が産声をあげた。マルゼンスキーを父、サクラセダンを母に持つその馬が生まれた時、まだ若かった谷岡氏は

「Gl級の馬が生まれた!」

という手応えに震え、

「この馬でクラシックを獲りたい、いや、獲るぞ!」

と決心した。

 その馬には、生まれながらに脚部不安という欠点があった。しかし、谷岡氏には、その馬の出生時に感じた酔い、そして少しでも早く目に見える結果を出したいという焦りがあった。若さゆえの酔いと焦りは、彼の心から慎重さを奪った。谷岡氏は、脚部不安があると分かっていたにもかかわらず、調教師が求めるままに馬を急いで仕上げ、早々に厩舎に送り出した。早くダービーに出すために、早めに実績を積ませたい。そして、この馬の器を、少しでも早く自分の目で確かめてみたい。そんな思いが、谷岡氏の目から冷静さを奪っていることに、彼自身気づいていなかった。

 ・・・やがてサクラトウコウと名づけられてデビューしたその子馬は、まずは期待に応えて函館3歳S(重賞。年齢は当時の数え年表記)を勝った。だが、未成熟な馬体と不安を抱えた脚に早すぎる仕上げをかけたツケは、すぐに払わせられた。肝心のクラシック前に故障したサクラトウコウは、結局皐月賞、ダービーには出走することさえできず、菊花賞も本調子でないまま惨敗を喫してしまった。

『過ちを糧として』

 その後のサクラトウコウは、慢性的な脚部不安に悩まされ続けながらも七夕賞(Glll)を勝ち、重賞を2勝して競走生活を終えた。だが、この馬が持って生まれたはずの素質と才能からすれば、ローカル重賞2勝程度で終わる馬ではなかった。

「俺があの時無理をさせなければ、もっと凄い馬になれたはずだったのに・・・。」

 この時の悔いは、谷岡氏の胸に深く刻みつけられた。それ以来谷岡氏は、脚部不安を抱えた馬をみると、必ずサクラトウコウのことを思い出したという。自分の判断ミスで大成させることができなかったサクラトウコウの時の後悔だけは、二度と繰り返したくなかった。

 谷岡氏にとって、素質馬ながら脚部不安があるサクラローレルは、まさにサクラトウコウの再来ともいうべき馬だった。いや、少なくともその素質においては、サクラトウコウを超えているかもしれない。だからこそ、彼はサクラローレルを、特に慎重に仕上げることにした。仕上げるのは、他の馬に比べて遅い化骨が進んでからで十分だ、と・・・。

 谷岡氏が十分に時間をかけたため、サクラローレルが境厩舎に入厩したのは、晩秋になってからのことだった。同期の馬たちの多くは既に入厩しており、中には新馬戦でデビューを果たした者も少なくなかった。

 ちなみに、「サクラローレル」という馬名のうち「ローレル」とは、月桂冠を意味する英語「LAUREL」に由来する。ヨーロッパでは、月桂樹には邪気を払う神聖な力があるとされており、月桂樹で作った冠・・・月桂冠は勝利と栄光の象徴として尊ばれてきた。オリンピックの起源とされるオリンピアの丘の競技では、優勝者には、その栄光を称えるために「月桂冠」が与えられた。古代ギリシャに起源を持つ現代マラソンでも、優勝者には月桂冠が与えられ、それをかぶったまま勝利者インタビューに応じている光景をよく目にするが、これは過去のそんな風習のなごりである。

『お坊ちゃんのデビュー』

 閑話休題。ようやく入厩を果たしたサクラローレルだったが、入厩後間もない時期の調教では、他の馬から遅れてばかりだったという。谷岡牧場でマイペースの調教を受けて育ったサクラローレルの仕上がりは、早くから境厩舎に入厩して競走馬としての厳しいトレーニングを受けてきた馬たちに比べると、かなり見劣りしていた。

 また、当時のサクラローレルは体質が弱く、強い調教をかけるとすぐに体調を崩したり、骨膜炎を発症したりもした。サクラローレルに大いに期待していた境師も、実際に彼がやって来てからは、その仕上げに手を焼き、

「いかにもお坊ちゃんという感じだな・・・」

と嘆かずにはいられなかった。彼も、その時になってようやく、谷岡氏があれほどに仕上げを急ぎたがらなかった理由を理解した。

 結局、境師も仕上げに手間取ったサクラローレルは、3歳のうちにレースに使うことができず、デビューは明け4歳にずれこんだ。正月気分もさめやらぬ1994年1月6日、サクラローレルはようやくデビュー戦となる中山競馬場の芝1600mの新馬戦にその姿を現した。

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