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サクラローレル列伝 ~異端の王道~

『魔物』

 だが、ゲートが開いた直後、境師は愕然とした。サクラローレルが立ち負けて、出遅れてしまったのである。

 レース前に、境師は横山騎手にひとつだけ指示を与えていた。

「ある程度前に行ってくれよ・・・」

 この日の出走馬には、実力を備えた確固たる逃げ馬が不在であり、レースはゆったりとした流れが予想されていた。相手も強い馬が揃っている以上、極端な前崩れの可能性は考えにくい。ゆったりした流れで馬群が固まりそうである以上、少しでも前につけていた方が有利になることは明らかだった。境師にしてみれば、口にするのもはばかられるような簡単な読みだったが、さらに念には念を入れて横山騎手にも指示を出しておいた。横山騎手も

「分かりました」

と答えたはずだった。

 しかも、横山騎手がさらにまずかったのは、その後だった。出遅れようと思って出遅れる騎手はいない以上、スタートにいくら気をつけていても、出遅れてしまうことはある。だが、その後どう動くかによって、出遅れたミスを帳消しにすることもあれば、ミスを増幅してしまうこともある。・・・そして横山騎手は、後ろから2、3番手からのレースとなったにもかかわらず、馬の位置を上げる気配もなく、後方のまま構えてしまった。このままレースを進めたら、どうなるか?横山騎手をリーディングジョッキーと信頼し、相手も当然分かっていると思っていた境師だったが、彼の最悪のシミュレーションは、横山騎手には見えていなかった。

「秋の盾には魔物が棲んでいる・・・」

 そういわれる「魔物」の牙は、この年も1番人気・・・サクラローレルと横山騎手をとらえて逃がさなかったのである。

『リーディングジョッキーの失敗』

 レースの流れ自体は、 境師が予想したとおり、あまり速くならなかった。いつも好位か、せいぜい中団あたりでレースを進めてきたサクラローレルだが、この日に限っては後方のままマイペースの競馬を続けた。サクラローレルが動いたのは、第3コーナーあたりでのことだった。

「ここからなら、外に持ち出せる・・・」

 この時なら、サクラローレルの外はぽっかりと空いていた。外に持ち出そうと思えば、簡単に持ち出せる。外に持ち出しさえすれば、今のサクラローレルならすべてを差し切る瞬発力もあるはずだ・・・。

 ところが、横山騎手はなぜか外に持ち出さなかった。逆に、馬たちが殺到する内へと強引に突っ込んだ。その瞬間、境師の焦燥は、怒りに変わった。これほどに仕上がった馬の力が、信じられないというのか。だが、その叫びが横山騎手に届くことはない。

 横山騎手の読みでは、内に突っ込んでも、サクラローレル1頭分の進路がすぐに空くはずだった。進路を確保できるのであれば、距離の無駄がない分、外に持ち出すより内に突っ込む方が有利である。・・・進路が確保できるのであれば。

 しかし、馬の壁に力ずくで突っ込んだサクラローレルの進路に、なかなか空間は生じない。横山騎手にも、「こんなはずではなかった」という焦りが走る。・・・ そんな彼らの外に、ようやく馬1頭分の進路が開きかけた。横山騎手は、進路を変更して強引に馬体をねじこもうとする。彼の目に、同じ空間を狙うもう1人と1頭の存在は、映っていない。

 そこで横山騎手の苦境に気づいたのは、彼らの外にいたマーベラスサンデーの武豊騎手だった。横山騎手と同様にその空間を狙っていた武騎手は、横山騎手とサクラローレルが同じ空間を狙っていること、そしてその様子はかなりあわただしく、最大の敵は今、自滅に近い形でもがいていることに気づいた。彼らが飛び込もうとする空間は、馬1頭分しかない。では、ここで彼らがチャンスを逃したら・・・?

『閉じ込められて』

 ようやく見つけた空間に飛び込もうとした横山騎手は、愕然とした。外にいたマーベラスサンデーと武騎手が、半馬身ほど前を行く形でその空間に飛び込んできた上、サクラローレルの前にいたマヤノトップガンに馬体を併せにいってしまったのである。それに対し、サクラローレルと横山騎手は、最初からその空間を狙っていたわけではなかった分、反応が遅れた。・・・サクラローレルは、先手を打たれた際にマーベラスサンデーと接触し、弾き飛ばされてしまった。これで、彼らの進路は完全にふさがれてしまった。

 気がつくとサクラローレルは、前がマヤノトップガンとバブルガムフェロー、内がユウセンショウ、そして外がマーベラスサンデー・・・と完全に囲まれてしまった。特にマーベラスサンデーは、サクラローレルの半馬身前に出た形で、サクラローレルを絶対に外には出させない、とばかりに陣取っている。それは、武騎手による完全なサクラローレルの封じ込め作戦だった。武騎手は、外さえブロックしておけば、内はユウセンショウが遅れても、今度はベストタイアップが代わりに壁になってくれることを知っていた。

 ・・・計算し尽くされた武騎手の作戦は、見事に実った。彼の読みどおり、内のユウセンショウが遅れても、今度はベストタイアップが新たな壁となってサクラローレルの外に立ちはだかる。サクラローレル包囲網の中に無残なまでにはまりこんだサクラローレルは、前と内と外を包まれ、何重もの馬の壁の中に閉じ込められてしまった。

 サクラローレルの道が空いたのは、他の馬たちが自分の進路を確保し、完全に追い比べに入った後のことだった。バブルガムフェローが1歩抜け出し、マヤノトップガン、マーベラスサンデーもバブルガムフェローへの追撃態勢に入ったあたりで、ようやくサクラローレルの包囲網が緩み、内にいたベストタイアップも遅れ始めた。サクラローレルは、ようやく内に進路をとって馬群を抜け出した。サクラローレルは、最後まで外に持ち出せなかったわけで、武騎手の封じ込めは、完全に成功したのである。

 それでもサクラローレルは、さすがの瞬発力を見せた。上がり3ハロンの脚は、出走馬の中でも最速だった。・・・だが、大混戦の中で終始窮屈な競馬を強いられたサクラローレルが、残りわずかな距離で先に抜け出した他の有力馬たちとの差を縮めることは、並大抵のことではなかった。

 ・・・結局、ゴール板に駆け込んだサクラローレルの前には、バブルガムフェロー、マヤノトップガンの姿があった。ほぼ同時にゴールしたマーベラスサンデーとの3着争いには競り勝ち、せめてもの意地は見せたものの、そこまでだった。サクラローレルと彼に先着した2頭の違いは、スタート直後から好位につけ、これといったトラブルにも巻き込まれずにレースを進めた馬と、そうでない馬との差であることは、誰の目にも明らかだった。

『府中に堕つ・・・』

 3着に終わって引き揚げてきた横山騎手の顔面は、蒼白だった。この日彼が迎えたいくつかの重大な局面。もしその中のどれかひとつでも彼がうまく乗り切っていれば、こんな結果にはならなかったはずだった。しかし、彼はそのすべてで過ちを犯したのである。そんな彼を待っていたのは、

「こんなリーディングジョッキーがいるか!これなら境さんが乗った方がマシだ!」

という境師の怒声だった。

 境師も、調教師になる前は騎手をしており、通算534勝をあげている。実戦では、どんな一流騎手でも、常に調教師の指示どおりに乗れるわけではないということくらい、彼には十分すぎるほどよく分かっていた。だが、それを知っていても、この日の横山騎手の騎乗は我慢ならないものだった。境師の指示の真意を解さず、レースの流れも読めず、その挙句に窮地に陥って焦り、ライバルの術中にはまってしまった。いや、術中にはまったというより、自滅した。それがいかに無様な競馬かを分かっていたのは、ほかならぬ横山騎手だった。彼は、周囲があきれるほどの境師の罵声と非難に対しても何ひとつ言い返すこともなく、

「僕がもっとうまく乗っていれば・・・」

とうなだれるばかりだった。前年の関東リーディングジョッキーをして完全に平常心を失わせてしまったのも、やはり1番人気に憑くという天皇賞・秋に棲む魔物の仕業だったのだろうか。

 サクラローレル自身は、行き場を失い、他の馬と接触しても最後まで走る気を失うことなく、出走馬随一の末脚を見せた。だが、彼が目指した天皇賞春秋連覇の望みは、あまりに悔いの残る形で断たれてしまった。境師、小島師、横山騎手、そして彼らを取り巻くすべての人々の夢は、府中の魔物の前に堕ちたのである。

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