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サクラローレル列伝 ~異端の王道~

『挫折に満ちた秋』

 こうしてダービーを前にして不本意な戦線離脱を余儀なくされたサクラローレルだったが、幸い球節炎の症状は軽かった。夏が終わって秋が始まり、無事にターフに戻ってきたサクラローレルは、クラシック三冠の最後のレースとなる菊花賞に目標を定めた。

 皐月賞、ダービーに出走できなかったサクラローレルにとって、菊花賞はクラシック戴冠の最後のチャンスとなる。しかし、条件戦を2勝しただけのサクラローレルが菊花賞への出走を確実にするためには、本番までに賞金を上積みするか、トライアルレースで優先出走権をとる必要があった。境師が描いた青写真は、トライアルまで時間的余裕があることから、まず自己条件の佐渡S(900万下)を勝って弾みをつけ、その勢いで菊花賞トライアルを使い、優先出走権をとって本番へ向かう・・・というものだった。

 しかし、その佐渡Sで大きく出遅れ、3着に敗れて賞金の上積みに失敗したのが、ケチのつき始めだった。出だしから躓いた形のサクラローレルの菊花賞への道のりは、続く菊花賞トライアル・セントライト記念(Gll)でより険しいものとなった。重馬場に脚をとられたサクラローレルは、見せ場もないまま、3着に入るどころか掲示板にすら残れず、8着に敗退してしまったのである。

 セントライト記念で菊花賞への優先出走権さえ得られなかったことで、サクラローレルの秋のローテーション、そして運命の歯車は大きく狂っていった。菊花賞への出走自体が危うくなったサクラローレルが、次走に菊花賞の最後のトライアルとなる京都新聞杯(Gll)ではなく自己条件の六社特別(900万下)を選んだのは、菊花賞の登録馬が少ない情勢のもと、自己条件でも3勝目をあげさえすれば出走がかないそうだ、という読みゆえだった。しかし、サクラローレルに残された、菊花賞へと続く最後の細い道は、9頭だて7番人気の穴馬バースルートの大逃げを「いつでもつかまえられる」と甘く見て放置したことによって、完全に断ち切られてしまった。相手を甘く見た結果仕掛けが遅れて脚を余したサクラローレルは、この日バースルート、そして菊花賞に1馬身4分の3届かず2着に終わった。こうしてサクラローレルの菊花賞、そしてクラシックは、本番にたどりつくことすらないままに終わりを告げた。サクラローレルにとっての4歳秋は、挫折のみとともにあった。

『風雲再起』

 1994年、晩秋の京都競馬場は、ナリタブライアンによる10年ぶりの三冠達成に沸いた。それも、2着に7馬身差をつけての圧勝は、他の馬との永遠の差を感じさせるものだった。

 だが、その歴史的な舞台に、サクラローレルの姿はなかった。ナリタブライアンの栄光の道となった三冠レースに、一度も出走することさえできないままクラシックの夢を断たれたサクラローレルは、菊花賞の前週に東京で行われた秋興特別(900万下)に出走し、そこでも10頭だての9番人気の馬に差し切られて2着に敗れた。境師や小島騎手は、一度狂ったリズムを取り戻すことの難しさを痛感せずにはいられなかった。

 皮肉なことに、サクラローレルに復調の兆しが見えたのは、菊花賞が終わった後のことだった。菊花賞から遅れること2週間、マイルCS(Gl)に出走する境厩舎とサクラ軍団のエース・サクラバクシンオーの帯同馬を務めるために西下したサクラローレルは、比良山特別(900万下)で遅すぎた3勝目を挙げた。クラシックには間に合わなかったサクラローレルだが、好位からきっちりと折り合っての競馬ができたこの日の競馬は、彼の大いなる将来性を表し、それまでの不満や苛立ちの日々、失った信頼も、わずかながら取り返すものだった。

 小島騎手はレースの後、

「天皇賞にも乗りに来る!」

と高らかに宣言した。多くのファンは、まだこの言葉を小島騎手の見栄かホラとしかとらなかったが、それまで忘れていた勝利の味を思い出し、そして芝での初めての美酒を味わったことは、サクラローレルにとって、大きな転機となった。

『冬に始まる桜の季節』

 サクラローレルの周辺は、クラシックに代わる新たな夢・・・天皇賞・春(Gl)へ向けて動き始めた。いくら秋興特別を勝ったとはいえ、900万下を勝っただけの馬ではいくら「盾を目指す」といっても本気にしてはもらえない。だが、次走の冬至S(準OP)、そして1995年の中央競馬の幕開けを告げる中山金杯(Glll)と3連勝すれば、話はまた変わってくる。

 冬至Sのサクラローレルは、道中で引っかかり、馬が第4コーナーで勝手に先頭に立つという苦しい展開だった。また、中山金杯は、重馬場ながら800m地点の通過タイムが45秒9と、良馬場以上のハイペースとなる中での中団待機から、第3コーナーあたりで強引にまくって進出するという激しい競馬だった。だが、サクラローレルは、その両方で勝った。

 冬至S当日の中山競馬場のメインレース・スプリンターズS(Gl)は、境厩舎と「サクラ軍団」のエース・サクラバクシンオーが連覇を達成し、有終の美を飾ったが、サクラローレルはこの日、勝利をもって「サクラ軍団」のエースの地位を譲り受けた形となる。また、中山金杯では、重賞初制覇でオープン馬の仲間入りを果たすとともに、見事に中央競馬の1995年の始まりに名を刻んだ。

「1994年はナリタブライアンで終わり、95年はサクラローレルで始まる・・・」

 この言葉は、ただ単にナリタブライアンが94年最後の重賞たる有馬記念(Gl)を勝ち、サクラローレルが95年最初の重賞を勝ったという意味にとどまらない。この時点でサクラローレル陣営は、三冠レースでは一度も対戦することさえ許されなかった同期の怪物ナリタブライアンを、はっきりと意識していた。

『春、遠からじ』

 サクラローレルの次走が2500mの目黒記念(Gll)に決まったのは、3200mの天皇賞・春(Gl)を見据えてのことだった。もはやファンからもはっきりと天皇賞・春の有力馬として意識され始めた彼は、単勝150円という断然の1番人気に支持された。

 だが、小島騎手のそのことに対する自負は、サクラローレルの競馬を変えてしまった。

「天皇賞・春を目指す以上、1番人気の競馬をしよう」

 そう欲を出した小島騎手の作戦は、第3コーナーから強引にまくって早めに先頭に立ち、そのまま押し切るというものだった。・・・後方待機を採っていたハギノリアルキングは、そんなサクラローレルというよりは小島騎手の強引さ、そしておごりを見逃さなかった。早めに仕掛けたことで最後に脚色が鈍ったサクラローレルは、ここで襲いかかってきたハギノリアルキングとの叩き合いの結果、わずかにクビ差差し切られてしまったのである。積極的に自分からレースを作り、さらにコースレコードで走破したサクラローレルではあったが、勝利をハギノリアルキングにさらわれたのでは意味がない。

 レース後の小島騎手は、この日の敗因について

「次の天皇賞で『ナリタブライアンを負かすんだ』って気負ってしまって。目黒記念ではちぎって勝ってやろうと、相手をなめてしまったんです」

と悔やんでいる。はっきりした目標を持つのはいいことだが、それが傲りになってはいけない。彼は、自らの傲りの代償を、勝てるはずだったレースをひとつ落とすという形で支払うことになった。

 ただ、小島騎手の騎乗ミスはあったものの、サクラローレルのレース内容自体はファン、専門家の両方に「負けてなお強し」という印象を刻みつけるに十分なものだった。もうサクラローレルに期待を寄せるのは彼を取り巻く人々だけではなくなっていた。大本命ナリタブライアンの優勢は動かないにしても、もはや彼を対抗に推しても、誰も文句は言わないところまでその評価は高まっていた。デビュー戦での惨敗、出走権を手にした日本ダービーの直前での戦線離脱、そして4歳秋の不振と菊花賞断念・・・。それまでさんざん回り道を強いられてきたサクラローレルの開花の季節は、すぐそこまで来ていた・・・はずだった。ようやく飛躍の足がかりをつかんだサクラローレルに、さらなる過酷な運命と長く厳しい冬が待っていることなど、誰も予想してはいなかった。

『遠ざかる夢』

 1995年天皇賞・春(Gl)は、断然の1番人気が予想されていたナリタブライアンを中心とした争いが予想されていた。そのナリタブライアンは、前哨戦の阪神大賞典(Gll)を圧勝してますます完成度を高めているかに見えたが、そのナリタブライアンが故障を発症して天皇賞・春を前に戦線を離脱したことで、俄然天皇賞・春戦線は混戦ムードへと変わっていった。気がつくと、出走馬の中でGl勝ちがあるのはライスシャワー1頭だけであり、そのライスシャワーも近走は不振という実力伯仲の戦国天皇賞である。

 そんな情勢の中で、連勝こそ前走で止まったものの、調教でも依然として好調を維持するサクラローレルは、天皇賞・春の対抗馬から本命馬へと昇格しつつあった。調教でも上昇気配が伝えられるサクラローレルへの支持は、少しずつ、しかし着実に広がっていた。

 ところが、ナリタブライアンの次は、サクラローレルに悲運が待っていた。京都競馬場で行われる天皇賞・春本番に備えて栗東入りし、直前追い切りまで敢行したサクラローレルだったが、その直前追い切りの際に、彼の前脚に異常が発生したのである。小島騎手はすぐに下馬し、サクラローレルは獣医の診察を受けることになった。

 ・・・サクラローレルに下されたのは、両前脚第三中手骨骨折による競走能力喪失・・・競走馬としては死の宣告に等しい診断だった。もともと不安があった彼の脚は、好調の陰で、歴戦の疲労に深く蝕まれていた。そしてその爆弾は、最も残酷な時期に、残酷な形で爆発してしまったのである。

 天皇賞・春の主役になるはずだったサクラローレルは、日本ダービーに続いて本番を目の前にしての故障で檜舞台からの退場を余儀なくされた。しかも、前回は軽い球節炎にすぎなかったが、今度は二度とターフに戻ってこれない可能性もある・・・というよりは、その可能性の方が高い。人々の同情に満ちた視線に見送られ、サクラローレルは寂しく栗東を去っていった。1995年の桜の季節は、あまりに大きな無念だけを残し、サクラローレルの前から遠ざかっていった。

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