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サクラローレル列伝 ~異端の王道~

『ロンシャンへ続く道』

 天皇賞・春、有馬記念制覇、1996年JRA年度代表馬・・・。日本のサラブレッドの頂点というに足りる実績を残したサクラローレルだったが、翌1997年も競走生活を続けることになった。これだけの実績を残せば、功成り名遂げて引退、種牡馬入りするという選択肢もあったはずだが、サクラローレル陣営の視線は、さらなる頂へと向けられていた。

 97年2月、定年を迎えた境師は調教師を退き、名門境勝太郎厩舎の歴史は終わりを告げた。境師に代わるサクラローレルの管理調教師となったのは、境厩舎を引き継ぐ形で厩舎を旗揚げした小島太師だった。

 そして、サクラローレルの周辺では、このころから海外遠征の噂がささやかれるようになり始めた。春の目標は天皇賞・春連覇におかれたが、その後は・・・?日本の競馬界の頂点に立った最強馬として、世界の最高峰へと挑むことではないのか?

 サクラローレルが海外遠征を行う場合の目標は、フランスのロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞(国際Gl)が有力視された。サクラローレル自身が欧州の血統であること、「サクラ軍団」の創始者ともいうべき全演植氏も欧州競馬との縁が深かったこと等の理由だった。・・・そして、小島師らサクラローレルの関係者たちも、噂をあえて否定はしなかった。

「天皇賞・春の結果次第で、その可能性も考える」

 それは、限りなく肯定に近い保留だった。

 ただ、名馬の周辺に海外遠征の噂が流れることはそれまでも何度もあったが、それが実行に移された例は極めて少ない。海外遠征には莫大な経費がかかる一方で、海外の賞金水準は、日本の中央競馬に比べてかなり低い。Gl確勝級の一流馬になればなおさら、海外遠征などせずに国内レースをひとつでも多く使った方が経済的には得となる。中央競馬の真の一線級が海外遠征を実行に移した例は、故障という結果に終わったシンボリルドルフの失敗以降途絶えていた。

 しかし、サクラローレル陣営が求めるものは、もはや経済的な損得ではなかった。日本最強馬として、海外に挑む。彼らが望むものは、ただそれだけだった。そのことの背景に、サクラローレルが前年のジャパンCで、世界最強クラスの名馬たちと戦う機会を自ら諦めざるを得なかったことも挙げられる。彼らは世界の中でサクラローレルがどんな位置づけになるのかを知る機会を失い、世間からは叩かれた。その時の悔しい思いも、海外への思いにつながった。

 彼らの挑戦の意味は、日本最強馬として世界に挑むことにあった。彼らにとって最初の目標は、あくまでも天皇賞・春だった。ここで惨敗するようなら、海外に行く意味はない。その意味で、天皇賞・春もまた、彼らにとって大きな意味を持つレースだった。

『雷動』

 小島師は、サクラローレルを天皇賞・春にぶっつけ本番で使うことを明らかにした。天皇賞・春を狙う有力馬は、阪神大賞典(Gll)、日経賞(Gll)、産経大阪杯(Gll)といったステップレースを叩いて本番に向かうのが普通だが、小島師は

「サクラローレルならば、ステップレースを使わなくても力は出せる」

とあえてこれらを使わないという。

 そんなサクラローレル陣営の動きをよそに、ライバルたちは、それぞれが順調な仕上がりを見せていた。

 阪神大賞典(Gll)から始動したマヤノトップガンは、それまでの先行策を捨て、最後方からの競馬でファンを驚かせたが、直線一気の追い込みという新しい競馬で快勝し、Gl3勝馬として格の違いを見せつけた。

「すわ、脚質転換か」

と色めく報道陣に対し、田原騎手の反応は

「脚質転換というわけではない。どうやったら馬が一番気持ちよく走れるかを考えただけ」

という冷淡なもので、マヤノトップガンを管理する坂口正大師も、

「天皇賞では私のいうとおりに乗ってもらう」

と、この日の騎乗が事前に打ち合わせられた作戦ではないことをにおわせた。だが、田原騎手らは、サクラローレルを倒すための「何か」をつかもうと、必死で進路を模索していた。

 また、マーベラスサンデーもまた、ロイヤルタッチ、ユウトウセイ、イシノサンデーらが揃った産経大阪杯(Gll)から復帰した。好位からの横綱競馬という自分自身の競馬に磨きをかけ、最後に紙吹雪に驚いてよれるというアクシデントはあったものの、それでも後続をまったく寄せつけない完勝で、健在を誇示した。

「東に1頭強いのがいますけど、今のマーベラスなら負けないと思います」

 武騎手は、天皇賞・秋、有馬記念で2度とも敗れたサクラローレルが最大の敵とばかりに、敢然と挑戦状を叩きつけてきた。

 彼らに共通するのは、

「ここでローレルを倒さなければ、そのチャンスは2度と巡ってこない」

という危機感だった。サクラローレルが天皇賞・春を勝って凱旋門賞へ、ということになれば、凱旋門賞の後にまた日本のレースに出走してくる保証は何もない。これまでの対戦成績でも負け越す彼らにとって、天皇賞・春はそんなライバルに一矢を報いる最後のチャンスだった。・・・だが、そんなライバルたちをよそに、サクラローレル陣営は沈黙を保った。意気上がるライバルたちに比べると、サクラローレルの動静はあまりに伝わってこなかった。

『三強頂上決戦』

 実は、サクラローレルの動静がなかなか伝わってこないことには、ある理由があった。サクラローレルは、有馬記念の後、ごく軽度ではあるが骨折を発症していたのである。ほっておけば治る程度ではあったにしても、調整の遅れは避けられない。サクラローレルの前哨戦の回避と調整過程の潜行は、それゆえだった。

 しかし、本番が近づくにつれてサクラローレルの仕上がりは上々となっていった。またファンも、連覇を目指す前年の覇者であり、年度代表馬としてマヤノトップガン、マーベラスサンデーの挑戦を受けて立つディフェンディングチャンピオンとしてのサクラローレルを信じていた。かつて13ヶ月ぶりの中山記念を制したこの馬ならば、4ヶ月やそこらの空白を苦にするはずがない・・・。その信頼を支えたのは、1996年にサクラローレルが見せた瞬発力であり、安定性であり、そして王者としての競馬そのものだった。

 マヤノトップガン、マーベラスサンデー、そしてサクラローレル。それぞれ別々の形で春を迎えた彼らは、ついに「三強」と呼ばれる役者として淀の舞台に出揃った。「三強頂上決戦」・・・第115回天皇賞・春は、すぐそこに迫っていた。

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