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サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

『静内の噂の馬』

 母への期待と、父の無念。馬の身で背負うには重過ぎる宿命を背負って、サクラセダンとマルゼンスキーとの間に最初に生まれたのは、未完の大器サクラトウコウだった。サクラトウコウは、3歳時には「クラシックの有力候補」とうたわれたものの、生まれながらの慢性的な脚部不安に悩まされ、結局現役生活を通じて満足な状態で走ることすらできなかった。そんな状態でも七夕賞と函館3歳S(現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)を勝ったことから、

「もし脚が丈夫だったら、どれほどの馬になったのだろう・・・」

と、人々に惜しまれた。また、サクラトウコウの後に生まれた全弟のサクラセダンスキーは、地方競馬で7勝をあげている。

 谷岡氏は、この2頭の出来がよかったことから、もう一度サクラセダンにマルゼンスキーを交配することにした。こうして生まれたサクラチヨノオーに対し、谷岡牧場の人々は、兄を超えてほしい、と生まれる前から大きな期待をかけていた。

 すると、実際に生まれた子馬は、重賞を2勝したサクラトウコウを超える・・・というより、谷岡牧場の歴史の中でも例を見ないほどに素晴らしい馬体を持っていた。

「谷岡牧場に今度すごくいい馬が生まれたらしい」

 そんな評判は馬産地を駆けめぐり、谷岡牧場には

「今後の勉強のために、噂の馬を見せてほしい」

と見学に来る同業者たちが、静内はもちろん他の地域からも後を絶たなかったという。

『サクラ軍団』

 これほどの評判馬となると、馬主や調教師たちもこぞって欲しがるのが当然である。しかし、谷岡牧場は当時から、「サクラ」の冠名で知られ、サクラセダンも所有していた全演植氏とのつながりが深かったため、この評判馬は母、そして兄たちと同じく全氏の所有馬として、「サクラ軍団」の一員に加わることになった。この馬に対する期待の大きさを物語るように、厩舎は「サクラ」の勝負厩舎であり、兄のサクラトウコウも管理した境勝太郎厩舎に入厩することになった。競走名は、当時相撲界で無敵の強さを誇った大横綱・千代の富士から名前をとって「サクラチヨノオー」に決まった。

 こうしてサクラチヨノオーは、競走馬としての第一歩を歩み始めることになった。境厩舎でのサクラチヨノオーは、気性が荒くてなかなか人間の思い通りに動いてくれないという欠点はあったものの、いざ走らせてみると、デビューが待ち遠しいほどの動きを見せた。サクラチヨノオーは、生まれながらに抜群の心肺能力と強靱な身体能力を持っていたのである。

 やがてサクラチヨノオーの主戦騎手は、小島太騎手に決まった。小島騎手はサクラ軍団の主戦騎手ともいうべき存在であり、それまでもサクラショウリ、サクラシンゲキ、サクラユタカオーといった「サクラ軍団」の名馬たちのほとんどに騎乗していた。

『フトシとサクラと』

 「サクラといえばフトシ、フトシといえばサクラ」というのは、全氏の馬主としての後半生、小島騎手の騎手人生の大半の時代で、ほぼ常識となっていた。しかし、ことサクラチヨノオーに関する限り、小島騎手が騎乗することに決まったのは、必ずしも「当然」というわけではなかった。

 小島騎手は1966年に騎手としてデビューしたが、全氏は小島騎手がデビュー間もないころから、

「まるで我が子のようだ」
「いや、我が子以上では」

と言われるほどに彼のことをかわいがっていた。

 彼らの縁は、全氏が1頭の馬しか持たない零細馬主だったころ、小島騎手を騎手学校の入学式に連れてきた小島騎手の父親と意気投合し、

「息子をよろしく」

と頼まれたことに遡る。この時、小島騎手の顔を見て

「こいつは勝負師の顔をしている」

とおおいに気に入った全氏は、小島騎手の父親に

「息子さんは私が日本一の騎手に育てて見せます」

と約束した。やがて事業家としても馬主としても成功した全氏は、多くの馬を所有するようになってからも、その時の約束を忘れることなく、「サクラ」の馬にはまず小島騎手を乗せたのである。

 小島騎手を日本一の騎手に育てようと決めたその日から、全氏は

「馬券を買う金があったらいい馬を買ってフトシを乗せてやる」

と言って、馬券を買うのをやめたという。その溺愛ぶりは周囲があきれるほどで、世には「サクラといえばフトシ、フトシといえばサクラ」というイメージが形成されていった。

 しかし、これほどに強い絆で結ばれた2人だったが、サクラチヨノオーがデビューする直前の時期だけは、勝手が違っていた。

『断絶』

 1980年代中期の小島騎手は、騎手としての実力を誰からも認められる存在だった・・・わけではなかった。勝ち星を見ると、常にリーディング上位にいる。しかし、それは彼自身の実力ではなく、サクラ軍団の庇護のおかげだとみる向きが強かった。サクラといえば日本を代表する大馬主であり、そのサクラの有力馬は、黙っていても小島騎手に回ってくる。サクラから回ってくる馬に乗ってさえいれば、勝ち星は勝手に増えていく・・・というのである。その意味で、同じ関東を本拠地とする同世代の騎手の中でも、押しも押されぬ一流騎手として誰からも認められていた岡部幸雄騎手や柴田政人騎手といったあたりと小島騎手との間には、大きな溝があった。

 だが、小島騎手は「サクラあってのフトシ」という声に強く反発していた。

「サクラの庇護の下にいる限り、俺は本当の一流騎手とは認めてもらえない・・・」

 そう考えた小島騎手は、「サクラ」との専属契約を解消し、他の馬主の馬たちに積極的に騎乗するようになった。だが、そのことで全氏と小島騎手の間には溝が生じ始め、2人の関係は遠く、冷たいものとなりつつあった。この2人の断絶を決定づけたのは、当時小島騎手が騎乗を増やしていた有力馬主の1人に何かと噂があったことから、その馬主との関係を考え直すよう忠告した全氏に対し、小島騎手がにべもなく拒否したことだとも言われる。様々な行き違いの重なりは、やがて次なる騒動へと発展していった。

 1987年春、サクラ軍団のエースとしてクラシック戦線で主役を張ると思われていたのは、サクラスターオーだった。この馬は、当時のサクラの名馬としては珍しく境厩舎の所属馬ではないが、それは境師の弟子であり、また騎手時代にサクラの障害レースによく騎乗していた平井雄二調教師が厩舎を開業した際、境師が開業祝いとして平井師に譲ったからである。このサクラスターオーにも、デビュー以来、小島騎手が騎乗していた。

 ところが、クラシック戦線の幕が上がろうかという皐月賞トライアル・弥生賞(Gll)の開催週になって、たいへんなことが起こった。弥生賞に向けて準備をしていた平井師に、突然全氏から

「今週はフトシを降ろせ」

と電話が入ったのである。それまで弥生賞はもちろんのこと、クラシック戦線もすべて小島騎手でいくものと思いこんでいた平井師は、「寝耳に水」のオーナー指令で大慌てになった。結局サクラスターオーの鞍上は、平井師から相談を受けた境師の差配によって、境厩舎の所属騎手だった東信二騎手におはちが回ることになった。この乗り替わり事件の後、サクラからの小島騎手への騎乗依頼は途絶えた。

 こんなことが起こると、小島騎手は小島騎手でへそを曲げた。彼にしてみれば、レースの週になって突然、何の断りもなくクラシックの有力馬を取り上げられたのである。

「もうサクラの馬なんて2度と乗ってやるものか」

 そんな行き違いが重なって、全氏と小島騎手の関係は断絶状態になってしまった。

『消えぬ絆』

 しかし、この時期の全氏は、まるで自分の息子に背かれた父親のように落ち込んでいたという。また、小島騎手も「サクラの庇護を離れて誰もが認める一流騎手になる」どころか、持ち前の思い切りのいい騎乗が消え、不振に陥ってしまった。2人のことを心配した関係者たちは

「このままでは、2人とも本当にダメになってしまう」

といろいろと考え、なんとかこの2人を和解させようと知恵を絞った。

 そんな中で現れたサクラチヨノオーは、和解のための格好の材料となった。境師の管理のもとで早めに仕上がったサクラチヨノオーは、夏の函館でデビューする。馬好きの全氏でも、さすがに函館のローカル開催となるとそうそう行くわけではないが、世代一番の期待馬がデビューするということから、全氏はサクラチヨノオーのデビュー戦を応援するために北海道へ行くことになった。そこで、2人の間にそれぞれ間に入った人がおり、彼らの尽力によって、サクラチヨノオーには小島騎手が騎乗することになった。

 サクラチヨノオーに小島騎手が騎乗することが決まった時、全氏の周囲には反対の声もあった。しかし、全氏は

「フトシにどうしてももう一度ダービーを取らせてやりたいんだ」

とそんな声を抑えた。小島騎手は、1978年の日本ダービーでも全氏の持ち馬であるサクラショウリに騎乗して優勝し、ダービージョッキーに名を連ねている。デビュー前から「大器」と騒がれていたサクラショウリだったが、小島騎手の騎乗ではなかなか勝ち切れず、

「サクラミショウリ」
「鞍上が悪いから馬が勝てない」

と、散々陰口をたたかれていた。全氏はそんな騒音にもかかわらず小島騎手を鞍上から降ろそうとはせず、その結果サクラショウリはダービーを勝ち、小島騎手はダービージョッキーに、そして全氏はダービー馬のオーナーに名を連ねた。サクラショウリはその後宝塚記念も勝ち、「サクラ」にとって、そして小島騎手にとって、一流への飛躍のきっかけとなったのである。

 表面的には仲たがいをしていても、全氏は消えぬ絆で結ばれた小島騎手のことを心から心配していた。サクラスターオー事件も、小島騎手の「驕り」を戒めるためのショック療法であり、決して小島騎手のことを見捨てたわけでもなければ、嫌ったわけでもなかった。誰もが認める一流騎手になりたい。そんな勝負師ならではの焦りが、小島騎手の視界を狭めている。ならば、小島騎手が道を見失わないように、自分がもう一度力を貸してやりたい。そのための馬が、サクラチヨノオーだった。

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