TOP >  年代別一覧 > 1980年代 > サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

『風雲』

 前走のいちょう特別で、馬ごみの中での競馬をさせようとして不利を受ける羽目になった小島騎手は、この日は前走とはうって変わって、前で競馬を進めることにした。

 しかし、他の馬も小島騎手の思いどおりにレースを進めさせてくれるほど甘くはない。先手を取りにいったサクラチヨノオーだったが、3番人気のツジノショウグンも同じようにレースの主導権を握るため積極策をとり、この2頭が張り合う形となった。ツジノショウグンは、短距離で先行力を生かす競馬を得意としており、後にはクリスタルC(Glll)を勝っている。それまでの戦績は4戦2勝、着外2回だったが、逃げたときは2勝、出遅れたときは着外2回というこの馬にしてみれば、サクラチヨノオーにすんなり先手を取らせてくれないのも道理だった。

 この日はサクラチヨノオーが5枠、ツジノショウグンが6枠に入った関係で、2頭が並んだ時は、サクラチヨノオーが内、ツジノショウグンが外という形になった。サクラチヨノオーは、内枠の利もあって終始ツジノショウグンより前でレースを進めているかのように見えたが、実際にはツジノショウグンと岡部幸雄騎手に、マッチレースのように競られ、牽制されながらレースを進めなければならなかった。

 ツジノショウグンの鞍上は、関東の第一人者・岡部幸雄騎手である。岡部騎手の騎乗の持ち味は、派手さはないものの緻密な計算に裏打ちされた作戦の妙であり、実際それによって多くの大レースをものにしていた。さらに当時の小島騎手と岡部騎手といえば、当時は競馬界に知らぬ人はないほどの「宿敵」同士であり、「ライバル」というよりは純粋に仲が悪かったとすら言われていた。何せこの2人は、後ろにいる馬が相手だったら、たとえ自分の馬に脚がまったくなくなっていても絶対に譲らないと公言していたほどである。・・・もし当時の人々に、この2人が15年後には調教師と騎手として和解すると教えたとしても、たぶん誰も信じなかったことだろう。

 そんなツジノショウグンの圧力をよそに、ご本尊のサクラチヨノオーは、レース中もソラを使って、なかなかまじめに走ろうとしなかった。小島騎手は岡部騎手に対抗するためのヘッドワークを働かせるどころか、まずサクラチヨノオーをまじめに走らせることから始めなければならなかった。

『父に捧げる勝利』

 それでもサクラチヨノオーは、直線に向かうと内から抜け出す体勢に入っていった。すると、ツジノショウグンも、この時を待っていたかのように、サクラチヨノオーの外へ馬体を併せ、叩き合いに持ち込んできた。小島騎手は、まだ本気で走っていなかったサクラチヨノオーを叱咤し、

「本気で走れ!」

とその闘志を鼓舞するかのように、その馬体に鞭を叩きつけた。

 すると、それまで遊び遊び走っていたサクラチヨノオーは、ようやく底力を発揮した。ツジノショウグンはサクラチヨノオーをとらえて先頭を奪おうと上がってくるが、サクラチヨノオーもツジノショウグンが伸びればそれと同じだけ伸び、相手を封じ込めた。そして、食い下がるツジノショウグンに逆転を許さないまま、クビ差を保ってゴールしたのである。

 この日の勝利は、小島騎手にとっては6日前に亡くなった父親の墓前に捧げる勝利であり、またサクラチヨノオーにとっては父マルゼンスキーとの父子二代朝日杯制覇で、形こそ違えど「父に捧げる勝利」だった。

 こうしてサクラチヨノオーは、関東の3歳王者となった。レース後の関係者のコメントは、

「この馬の全能力を出し切ってのものではありません。馬ごみをさばいたり、まだいろいろ覚えさせていかなければならないでしょう」(小島騎手)
「いまのところは男馬にしてはちょいと細身な気がする」(境師)

などと注文が多かったが、何はともあれサクラチヨノオーは、同世代に先駆けてGl馬となった。

 だが、彼らは、この戦いでサクラチヨノオーという馬をはっきりと脳裏に刻んだ男がいたことに気づいていただろうか。その男は、自分としては完璧に運んだはずだったレースを、馬の底力だけで封じ込めたサクラチヨノオーの才能と実力に驚きを感じるとともに、次なる戦いではこの馬を倒すためにはどうしたらいいか、に頭をめぐらせていた。この馬では、サクラチヨノオーには勝てない。勝てるのは、どんな馬か。どんな作戦か・・・。この日の結果から新しいヒントを得た岡部騎手は、やがてサクラチヨノオーの前にもう一度大きく立ちはだかってくることになる。

『朝日杯馬の涙』

 閑話休題。朝日杯馬となったサクラチヨノオーの未来には、洋々たる可能性が拓けているように思われたが、先に味わうことになったのは、歓喜よりはむしろ無念の涙だった。

 有馬記念が終わって中央競馬の1年が終わると、年明けには表彰馬を決する記者投票が行われる。朝日杯を勝ったサクラチヨノオーは、当然最優秀3歳牡馬の有力候補とされたが、いざふたを開けてみると、サクラチヨノオーは西の3歳王者サッカーボーイの前に完敗したのである。それも、127票を獲得したサッカーボーイに対し、サクラチヨノオーが獲得したのはわずかに15票だけだった(他にグリンモリーが1票)。

 サッカーボーイは、朝日杯3歳Sと同日に行われた「関西の3歳王者決定戦」阪神3歳S(Gl)に出走し、後続を8馬身ぶっちぎった上、従来のレコードを0秒6も更新する脅威のタイムで圧勝していた。戦績は同じ4戦3勝だったが、クビ差でようやく勝利をもぎ取ったサクラチヨノオーの朝日杯に比べると、印象度でどうしてもサクラチヨノオーには分が悪かった。

 しかし、当時の最優秀3歳牡馬の選出では、阪神3歳S勝ち馬よりも朝日杯3歳S勝ち馬の方が優勢という傾向があった。レースの格としては阪神3歳Sよりも朝日杯3歳Sの方が上といわれており、「東高西低」と言われていた傾向も相まって、G制度導入の84年以降、朝日杯勝ち馬は3年連続して最優秀3歳牡馬に選出されていた(86年のメリーナイスは阪神3歳S勝ち馬ゴールドシチーと同時受賞)。それ以前にさかのぼっても、最優秀3歳牡馬になれなかった朝日杯馬は、惨敗経験があったり、フロックの香りが漂っていた馬が多く、4戦3勝、2着1回で最優秀3歳牡馬になれなかったサクラチヨノオーは、不運以外の何者でもなかった。

 境師や小島騎手は、サッカーボーイよりもサクラチヨノオーの方が強いと思っていた。悔しかった。この悔しさを晴らすため、彼らは翌年のクラシック戦線での雪辱を誓った。それが、関東の3歳王者の新しい出発となった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
TOPへ