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サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

                 『燃える魂』

 しかし、「オグリキャップが出られない」レースではあっても、戦いに生きる男たちの魂は決してさめることなく、むしろより強く、より激しく燃え上がっていた。

 まず、サクラチヨノオーの主戦騎手である小島騎手は、世間がなんと言おうとサクラチヨノオーの実力を信じ続けていた。

「人気薄で直線勝負の一発に賭けた馬にやられただけ。実力では負けてない」

 彼は、皐月賞については声を大にしてそう主張した。だが、そんな小島騎手を待っていたのは予期せぬ屈辱だった。

 毎年ダービーの週に開かれるダービーフェスティバルに、小島騎手も有力馬の騎乗騎手として呼ばれた。ところが、その場で披露された有力スポーツ紙6社の記者による予想で、思い思いに自らの予想を述べていった記者たちは、サクラチヨノオーのところに、まるで申し合わせたかのように無印を並べていった。

 結局、すべての記者が、サクラチヨノオーにはまったく印を打たなかった。・・・「戦国」といわれてどの馬が勝ってもおかしくない状況で、自分が実力ナンバーワンと信じ、また実績的にも朝日杯、弥生賞を勝って皐月賞で3着に入ったはずの馬へのまさかの扱いに、小島騎手は青ざめ、そして怒りと屈辱に震えた。

「(サクラチヨノオーは)どう考えたって、本質的にステイヤーですよ。実績はうちの馬がナンバーワンなんだ。あまり馬鹿にしないほうがいいよ」

 だが、思わず口をついて出てきた怒りは、そのままダービーに賭ける思いとなった。それは、小島騎手の勝負師としての血が燃え立つきっかけとなった。

『誇りを賭けて』

 また、サクラチヨノオーを取り巻く人々の中で、この年のダービーへ賭けた想い、負けられぬ誓いがあったのは、小島騎手だけではなかった。境師にも、自分の恩人である全氏のため、このダービーをサクラチヨノオーで勝たなければならない理由があった。

 境師は、自分が調教師として成功することが出来た理由について、全氏の全面的なバックアップがあったからだと公言してはばからなかった。全氏の信頼を得ていた境師は、ほしいと思った馬は全氏に買ってもらった上で自分の厩舎に入れてもらえた。無論、そのような信頼関係を確立するまでには、境師にも並々ならぬ気苦労があっただろうが、ほしい馬がいても馬主に思うとおりに馬を買ってもらえない調教師が大部分を占める中で、自分だけはそうした悩みの多くから解放されていたことを知っていた境師は、全氏を大恩人とあおぎ、感謝の念を隠そうともしなかった。

 ところが、境師は、そんな全氏に対し、そのわずか5年前に、とんでもない見込み違いをやってしまっていた。

 境師が全氏とともに馬探しのために社台ファームを訪れた際、当時の社台ファーム総帥・吉田善哉氏から、ある馬を直々に勧められた。全氏もその馬のことがとても気に入り、すぐにでも買おうとしたのだが、どうしたことか、境師はその馬が気に入らなかった。それどころか、

「この馬は走りません。もし(全氏が)買われたとしても、私は預かりません」

とまで言って、全氏に待ったをかけたのである。全氏は非常に残念そうだったが、信頼する境師がここまで言うのなら、ということでその馬のことをしぶしぶ諦めたため、その馬は社台ファームが始めたばかりの共有馬主クラブの所有馬として走ることになった。

 その3年後、第53回日本ダービーを制したのは、境師が「走らない」と断言したその馬・・・ダイナガリバーだった。全氏は、そのことで境師を責めたりはしなかったものの、境師は全氏に対して

「あの馬は松山(吉三郎)さんのところに行ったからダービーを勝てたんです。私のところに来ていたとしても、ダービーは勝てていません」

と妙な言い訳をしたという。・・・とはいっても、境師本人は、その言い訳を単なる「負け惜しみ」と自覚しており、全氏に対しておおいに責任を感じていた。

 全氏は、1978年にサクラショウリで一度ダービーを勝ってはいるが、それは久保田彦之厩舎の管理馬としてであり、境師は全氏のダービー馬を育てていなかった。この時境師は、自分の手で

「サクラの馬を必ずダービー馬にしてみせる!」

と心に誓っていた。そのため、サクラチヨノオーは、境師にとっても「勝負の馬」となった。

『星に祈りを』

 さらに、馬主の全氏は、自分自身のためだけでなく、ある馬のためにこの日のダービーを勝ちたいと願っていた。それは、3週間前の5月12日に逝ったばかりの彼の愛馬の1頭であるサクラスターオーのためだった。

 サクラスターオーは、前年の皐月賞、菊花賞を制した二冠馬であり、また年度代表馬にも選出された名馬である。しかし、サクラスターオー自身はその栄光を振り返るいとまもなく、菊花賞の後の有馬記念で左前脚繋靱帯不全断裂という致命的な故障を負ってしまった。その後のサクラスターオーは、約4ヶ月半にわたって闘病生活を送ったものの、必死の治療もむなしく力尽きた。

 二冠馬サクラスターオーは、皐月賞を制した後に脚部不安を発症したため、サラブレッドにとって一生に一度の祭典である日本ダービーには出走することすらできず、三冠の夢は潰えた。それから1年、そのサクラスターオーが天に帰った直後に同じ「サクラ」の冠名を背負った後輩がダービーに出走することは、全氏には何かの因縁であるように思われた。

 ダービー当日の朝、全氏は風呂に入って全身を清め、サクラチヨノオーの勝利を願う祈りをサクラスターオーに捧げたという。サクラスターオー自身が出走することすらできなかった特別なレースを前に、その晴れ舞台へと向かう「後輩」のため、力を貸してほしい・・・それは、馬を愛することでは人後に落ちず、それゆえにサクラスターオーの死によって深い喪失感に陥っていた全氏にとって、馬への情熱を取り戻すための儀式でもあった。

『第55回東京優駿』

 サクラチヨノオーは、彼に関わった多くの人々の、それぞれの思いを背負って第55回日本ダービーへと臨んだ。ダービーフェスティバルで記者全員から無印にされたサクラチヨノオーだったが、ファンからの人気も単勝940円の3番人気にとどまった。

 1番人気に支持されたのは、前年の西の3歳王者サッカーボーイである。しかし、皐月賞を球節炎で回避したこの馬は、皐月賞代わりの前哨戦に選んだNHK杯(Gll)で4着に敗れており、単勝オッズ580円は、押し出された1番人気に過ぎなかった。2番人気は皐月賞馬のヤエノムテキであり、人気薄のダート馬とみられていた経緯からは、皐月賞を勝っただけで一気にダービーの本命へ、とはいかず、640円の2番人気だった。4番人気のコクサイトリプルがNHK杯3着馬で、単勝もサクラチヨノオーと並んだ940円だったことからすれば、上位人気馬が総崩れに近い状態となった皐月賞で唯一踏ん張ったサクラチヨノオーの人気は、実績からみてもあまりに低すぎるものだった。

 だが、この人気を見た小島騎手は

「ファンは記者たちよりもよほどよく分かってる」

と満足したというから、競馬記者たちがいかにサクラチヨノオーに冷たかったかが分かろうというものである。

 オグリキャップの出走不能という影はあったものの、この日の東京競馬場は、15万人の大観衆を集め、中央競馬は、ギャンブルからレジャーとして認められる新しい時代を迎えようとしていた。・・・そんな観衆の前で始まった第55回日本ダービーは、個性派アドバンスモアの強引な逃げから始まった。

『もっともっと前へ』

 「もっともっと前へ」。そんな象徴的な名前を持つアドバンスモアは、後世には破滅的な逃げ馬としてその名と記憶を残すことになる。前走まで1400m以下のレースしか走ったことがなかった生粋の短距離馬が、いきなり挑んだ2400mのレースで打った敢然たる逃げは、1400mのレースかと思わせるようなものだった。

 アドバンスモアの父は、「サクラ軍団」の一員であり、小島騎手とともにいつも大逃げを打ち、第1回ジャパンCで「日の丸特攻隊」と讃えられたサクラシンゲキである。かつて父がそうだったように、勝敗を度外視してまで強引な逃げを打つこの馬がレースを作ったことから、ペースはおのずから厳しいものとなった。

 サクラチヨノオーは好スタートを切り、強引にハナを切っていったアドバンスモアを見ながら2、3番手の位置で競馬を進めた。だが、小島騎手は、アドバンスモアのペースにまともについていってはたまらない、とばかりに、道中でサクラチヨノオーの手綱を抑えて控えた。サクラチヨノオー以外にも狂気の逃げ馬についていく馬はおらず、アドバンスモアと後続の差は大きく離れて大逃げとなった。

 皐月賞2着のディクターランドと並ぶ形で追走したサクラチヨノオーは、向こう正面では他の馬の動向を見ることに徹した。アドバンスモアがこのまま逃げ切れるはずがないことは分かっている。前半1200mの通過タイムである1分12秒4は、前年よりも1秒2、前々年よりは2秒9も速い通過ラップだった。

『謎の後退』

 すると、案の定アドバンスモアは、第3コーナー付近で失速を始めた。・・・それまでの逃げが快調だっただけに失速ぶりも凄まじく、向こう正面では10馬身ほどあった後続との差があっという間に縮まっていき、第4コーナーまでの間にたちまち馬群の中へと呑み込まれていった。

 だが、沈んでいったのはアドバンスモアだけではなかった。最初は2、3番手につけていたサクラチヨノオーも、アドバンスモアの壮絶な失速の陰で、馬群の中へと後退していた。

「チヨノオーがおかしい」

 スタンドを埋めたファンのうち、サクラチヨノオー関連の馬券を買った者は悲鳴をあげ、そうでない者は胸をなでおろした。サクラチヨノオーのこれまでのレースで、最初好位につけながら、道中で中団まで下げるというのは例がない。サクラチヨノオーは、消えた・・・。

 しかし、それは観衆の早合点だった。小島騎手は、この日はペースが速いことを見抜き、ライバルとの力関係を冷静に観察した上で、あえてサクラチヨノオーを後退させたのである。小島騎手はこの時、本当の敵はまだ後ろにいるということを察知していた。

『迫りくる宿敵』

 馬群の中に沈み、その後二度と浮かんでこなかったアドバンスモアと違い、サクラチヨノオーは第3コーナーを過ぎてから再びゆっくりと、しかし確実に再進攻を開始した。先に動いた人気薄の馬たちを再びとらえ、直線に入ると再び先頭をうかがう位置で、他の何頭かと並んでの叩き合いが始まったのである。やがてサクラチヨノオーは、地力にものを言わせて馬場の真ん中から先頭に立った。

 だが、その時を待っていたかのように、内から1頭の影がサクラチヨノオーに襲いかかった。それは、名門メジロ牧場の悲願であるダービー制覇を託された貴公子メジロアルダンであり、また岡部幸雄騎手だった。

 メジロアルダンは、2年前の86年に牝馬三冠を制したメジロラモーヌの半弟で、キャリアはこの日でやっと4戦目だったが、前走のNHK杯(Gll)で2着に入ったことで、ダービーの優先出走権を獲得していた。

 岡部騎手といえば、朝日杯3歳Sではツジノショウグンに騎乗して、サクラチヨノオーとの叩き合いに持ち込みながら、最後はクビ差破れている。

「この馬は強い。一部で言われるような根性なしではない」

 その時サクラチヨノオーの強さを認めた岡部騎手は、ツジノショウグンではこの馬に勝てないと思った。ツジノショウグンはサクラチヨノオーとは直接対決することのない短距離戦線に進み、岡部騎手はクラシック戦線で懸命にサクラチヨノオーに勝てる器の馬を探していた。・・・そして彼が見出したのが、メジロアルダンだった。単勝人気は6番目だったが、岡部騎手の評価はそれよりもずっと上だった。

 だが、メジロアルダンとて、出走馬の中でそこまで抜けた実力を持っているわけではない。ライバルたち、特にサクラチヨノオーに勝つためにはどうしたらいいか。・・・その結果名手が出した結論は、早めに動くサクラチヨノオー1頭に相手を絞った上で、直線に入ってから並ぶ間もなく差し切る展開に持ち込むことだった。

 岡部騎手は、サクラチヨノオーの動きを徹底的にマークしながら競馬を進めた。馬群の内で我慢しながらひたすら好機を待ち、そして彼の読みどおりにサクラチヨノオーが先頭へと立とうとしたその時、彼もまた動いたのである。

『2着でええ!』

 あらかじめ計算し尽くされた岡部騎手の作戦は、ずばりとはまった。道中をうまく折り合った上、サクラチヨノオーに相手を絞って競馬を進めてきたメジロアルダンの脚色は、明らかにサクラチヨノオーのそれを凌駕していたのである。メジロアルダンの末脚は、日本ダービーのクライマックスともいうべき府中の坂でサクラチヨノオーをとらえ、そして突き抜けるかに見えた。さらに外からは、やや仕掛けが遅れたものの、長く広い直線を生かしてコクサイトリプルが飛んできた。

 その時戦況を見つめていた調教師たちの中から、

「2着でええ!2着!」

という絶叫が聞こえてきたというのは有名な話である。境師は、皐月賞でのサクラチヨノオーが直線で並ばれると、割とあっさりかわされていったことから、一度並ばれるともろい馬だと思っていた。そのため、サクラチヨノオーがメジロアルダンにかわされた瞬間にダービー制覇の夢は諦め、せめて猛追してきたコクサイトリプルは抑えて2着を確保してほしい、と弱気になってしまったのである。

 だが、日本ダービー史に残る奇跡が起こるのは、それからのことだった。

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