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サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

『坂の上の奇跡』

 スタンドを埋め尽くした15万の大観衆、そして境師は、その直後に信じられないものを見た。小島騎手がサクラチヨノオーに左鞭を叩きつけると、「終わった」はずのサクラチヨノオーがメジロアルダンに食らいついていったのである。それは、朝日杯3歳S以来眠っていた直線で並んでからの闘志が、もう一度呼び覚まされたかのようだった。

 いったんはサクラチヨノオーを抑えて前に出たメジロアルダンだったが、完全に葬ったはずの相手がまだ余力を残していたことは、まったくの計算外だった。いったん差してしまえばそのままゴールへ駆け込める。そんな岡部騎手の計算は、小島騎手の意地と執念の前に完全に狂わされた。

 実は、岡部騎手があらかじめサクラチヨノオーだけに相手を絞っていたのと同じように、小島騎手もメジロアルダンが最大の強敵になると予測していた。小島騎手はNHK杯には騎乗馬がいなかったが、彼はこのレースの出走馬たちも十分に研究した上で、2着馬メジロアルダンこそが最大のライバルになる、と見抜いていたのである。この馬とはおそらく直線後半での勝負になる、だからこの馬が来るまでは、末脚を残しておかなければならない。勝負師の勘が、そう告げていた。向こう正面から第3コーナーにかけての不可解な後退は、この時に備えて脚を残す小島騎手の作戦だった。既にトップギアに入っているかに見えたそれまでのサクラチヨノオーはあくまでもその一段手前の段階にすぎなかった。この期に及んで、小島騎手はついにサクラチヨノオーのすべてを開放したのである。

 場内の大歓声の中、サクラチヨノオーはいったん前に出たメジロアルダンを再びとらえた。小島騎手は、サクラチヨノオーの動きを見越して動いたはずの岡部騎手のさらに裏をかくことに成功した。しかし、いったん前に出たメジロアルダンも、己の持てるすべてをもってサクラチヨノオーに食い下がる。今の差を最後まで維持すれば、勝つのはサクラチヨノオーではなくメジロアルダンである。2人と2頭、その全知全能と意地を賭けた戦いは、凄まじい叩き合いとなって大観衆をただひたすらに熱狂させた。外からはコクサイトリプルも追い上げてくるが、この2頭には届かない。

『歓喜の光景』

 激しい叩き合いの末、サクラチヨノオーとメジロアルダンは、2頭が並ぶ形でゴール板の前を駆け抜けた。だが、ゴールの直後、サクラチヨノオーは確かにほんのわずか、メジロアルダンを差し返していた。・・・そして小島騎手は、左鞭を高らかに天に突き出した。メジロアルダンとの着差はわずかにクビ差だったが、そのわずかの差によって勝ち得た自らの勝利への確信を、小島騎手は自分の身体で表現したのである。

 掲示板に点灯した着順は、小島騎手のガッツポーズが物語っていたとおり、サクラチヨノオーがメジロアルダンをクビ差振り切ったことを示していた。大観衆の前で繰り広げられた熱い激戦にふさわしく、2分26秒3という勝ちタイムも燦然と輝くレコードである。このタイムは、1982年にバンブーアトラスが樹立した2分26秒5のダービーレコードを0秒2更新するものだった。

 ゴールの瞬間、境師は目の前で起こった現実が信じられなかったという。しばらくして現実に気がつくと、今度は腰が抜けて立ち上がれなくなっていたという。ダイナガリバーの購入話を蹴飛ばしたためにサクラの馬でダービーを勝つことを自らの使命として課した境師が歓喜を爆発させたのは、その後のことだった。

 こうして小島騎手は、サクラショウリに続く2度目のダービー制覇を果たした。一時はサクラとの関係を断ち切って自分ひとりで上らなければならないと思いつめた頂だったが、この時彼は初めて気がついたのかもしれない。誰も一人の力では頂を見ることなどできはしない。競馬学校の入学式で父が全氏とかわした約束によって騎手としての第一歩を歩み始めた彼にとって、サクラとの関係こそが騎手として、そして戦う男としての原点だったのである。表彰式の後、小島騎手は泣いていたという。

 また、全氏も小島騎手と同じく2度目のダービー制覇である。「ダービー馬の馬主になることは、一国の宰相になるよりも難しい」といわれるが、全氏はそのダービー馬を2頭も所有したのである。レースの後、全氏は

「スターオーの霊が後押ししてくれたかな・・・」

と感慨深げに漏らした。自分の所有馬を父と母として生まれ、二冠を勝たせてくれたサクラスターオーを、全氏は

「自分の息子も同じ馬」

と公言していた。そんな全氏は、それゆえにサクラスターオーの死を悲しみ、絶望もしたが、そんな彼を救ったのも、やはり彼の愛する馬だった。サクラスターオーが逝った3週間後、サクラチヨノオーがサクラスターオーの出走することさえできなかったダービーを勝ったことは、全氏にとって天の与えた宿縁に感じられた。

 口が悪いことで有名な境師が、小島騎手について

「あいつにはヘタクソな騎乗で何十億損させられたか分からん」

と言っていることは有名である。だが、その境師をしても、サクラチヨノオーのダービーについては、

「フトシの一世一代の名騎乗だった」

と認めている。この日のダービーについて、小島騎手以外の誰が乗ったとしても勝てなかった、と認める人は多い。

 このダービー制覇をきっかけに、一時は壊れかけた小島騎手とサクラの関係は完全に修復された。サクラホクトオー、サクラバクシンオー、サクラチトセオー、サクラキャンドル・・・。それ以降のサクラの名馬は、再び小島騎手と、時には栄光、時には挫折をともにすることになった。

 レースの前には「オグリキャップが出ていたら・・・」という声もあったが、この日のレースの素晴らしさは、そうした雑音を簡単にかき消すものであり、サクラチヨノオーは、多くの人々に支えられての第55代ダービー馬に輝いた。

 この光景は当然馬産地へも放送されたが、マルゼンスキーが繋養されていたトヨサトスタリオンステーションの人々や、マルゼンスキーの馬主も、父が果たせなかったダービー制覇の夢を見事果たした息子の殊勲に感激し、マルゼンスキーにもそのことを報告した。・・・そんなたくさんの幸福な光景を振りまいた第55回日本ダービーは、晴れやかに幕を閉じたのである。

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