TOP >  年代別一覧 > 1980年代 > サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

『北の大地より』

 こうして同世代のサクラ軍団のエース格であるサクラチヨノオーは、小島騎手を背にして、函館の新馬戦でデビューした。芝1000mという距離は、血統的にサクラチヨノオーには短すぎるようにも思われたが、好位抜け出しというそつのない競馬を進めたサクラチヨノオーは、絶対能力の違いであっさりと勝ち上がった。

 北海道開催で早々に勝ち上がった馬は、函館3歳S(Glll。現函館2歳S。年齢は当時の数え年表記)や札幌3歳S(Glll。現札幌2歳S。年齢は当時の数え年表記)に進むことが多い。しかし、境師はサクラチヨノオーにそうした道を歩ませようとはしなかった。境師は、サクラチヨノオーの函館遠征をこの1戦限りで切り上げると、さっさと美浦へ連れて帰ってしまったのである。

 境師にしてみれば、明らかに距離不足の新馬戦を勝ち上がって実力を示したことで、北海道遠征の目的は既に果たしていた。無理に函館3歳S(Glll)、札幌3歳S(Glll)といった重賞に進んで、ここに目標を絞った早熟な短距離馬たちと戦わなくても、サクラチヨノオーには、もっと大きな目標がいくらでもある。

 新馬戦から2ヶ月の余裕をとって中山の芙蓉特別に出走したサクラチヨノオーは、ここでも勝って2連勝を飾った。3歳馬ながら好位につけて抜け出す競馬ができるサクラチヨノオーは、デビュー前の高い評判と相まって「クラシック候補」という声もあがり始めた。

『茨の道』

 だが、順調に出世街道を歩むかに見えたサクラチヨノオーの前に、意外な落とし穴が待っていた。3連勝を狙って出走したいちょう特別(OP)は、不良馬場ではあったものの、相手関係からすればサクラチヨノオー優位は動かないはずだった。ところが、第4コーナーが広い東京競馬、それも7頭だての少頭数という恵まれた条件に油断があったのか、小島騎手はこの日終始馬群の中で競馬を進めたものの、最後の直線まで包まれたまま、うまく外へ持ち出すことが出来なかったのである。

 直線で追い出しが遅れる不利を受けたサクラチヨノオーは、マイネルロジックの2着に敗れた。勝って弾みをつけるはずだったサクラチヨノオーは、ここで意外な脆さをさらけ出し、「競馬に絶対はない」という言葉の意味を思い知らされる形となってしまった。明らかな小島騎手の騎乗ミスだった。

 さらに、追い討ちをかけるように、小島騎手を不幸が襲った。サクラチヨノオーは、通算戦績3戦2勝2着1回で朝日杯3歳S(Gl。現朝日杯フューチュリティーS。年齢は当時の数え年表記)へと進むことになったが、その1週間前になって、小島騎手のもとに「父、危篤」の報が入ったのである。日曜日の競馬が降雪により途中で打ち切られたため、小島騎手が北海道へ戻ったところ、父親は月曜日に亡くなったという。

 道営競馬の蹄鉄屋や農耕馬の売買を営んでいた父親は、小島騎手にとっては自分が騎手を志すきっかけを作った人物であり、また最初に馬について教えてくれた師でもあった。

 かなり前に病気で倒れてからは、小島騎手の父親は自由に動くことも話すこともできなくなっていたが、ただ小島騎手がテレビの中でレースに勝つ姿を見ると、そのことだけは分かるのか、いつもうれしそうに笑ったという。そんな父親の死は、小島騎手にとって大きな悲しみだったに違いない。

『ただ勝利だけを』

 小島騎手は、父の死を看取った後、すぐに東京へと帰ってきた。そんな彼の内に秘めた思いは、誰もうかがい知ることはできない。だが、「逆境や大舞台に強い」と言われ続けた男は、この時東京に帰っていつもどおり騎乗することこそが、亡き父親への最大のはなむけになることを知っていたのだろう。日曜日、中山のメインレースである朝日杯3歳S(Gl)では、小島騎手は6頭立ての出走馬の1番人気・サクラチヨノオーの鞍上にいた。

 有力馬に故障が相次いだために異例の少頭数となったこの年の朝日杯3歳Sだったが、出走馬の中で最も安定した戦績を残していたサクラチヨノオーは、単勝190円という支持を集めた。この年の出走馬には重賞勝ち馬はおらず、実績、安定性では連対率10割、オープン勝ち経験ありのサクラチヨノオーが抜けていた。

 サクラチヨノオーにとって、このレースはかつて父のマルゼンスキーが圧勝した思い出のレースである。ここで勝てば、父子二代朝日杯制覇の夢が現実のものとなる。

 この日は小島騎手、サクラチヨノオーの双方にとって決して負けられない、絶対に勝たなければいけないレースだった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
TOPへ