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サクラチヨノオー列伝~府中に咲いた誓いの桜~

『戦国皐月賞』

 ところが、弥生賞の勝利にもかかわらず、サクラチヨノオーの評価は不思議なほどに上がらなかった。朝日杯馬にして、弥生賞馬。それまで世代最強と見られていた最優秀3歳牡馬サッカーボーイは直接対決を撃破し、そのサッカーボーイは皐月賞直前に球節炎を発症して出走を回避した。それなのに皐月賞でのサクラチヨノオーは単勝420円で、同じく290円のモガミナインに続き、480円のトウショウマリオにも迫られての2番人気にとどまった。

 モガミナインはスプリングS(Gll)勝ち馬であり、それまで5戦4勝、3着1回という戦績を残していた。しかし、重賞制覇はスプリングSが初制覇であり、共同通信杯でサクラチヨノオーに先着しているとはいっても、しょせんは3着にとどまった馬である。そのオッズが物語るとおりに抜けた人気馬はおらず、第48回皐月賞は、どの馬が勝っても不思議ではない波乱含みのレースが予想された。

 そして、その予想は思わぬ形で的中することになった。レースが発走してすぐに、第2コーナーで武豊騎手騎乗のマイネルフリッセ、横山典弘騎手騎乗のメイブレーブが内側に斜行し、1番人気モガミナインが進路を妨害されて内枠に激突させられたのである。構造上第2コーナーで進路妨害が起こりやすい東京2000mコース「ならでは」のアクシデントだった。

『早すぎた勝負』

 好スタートから好位につけたため、このアクシデントに巻き込まれなかったサクラチヨノオーは終始3、4番手でレースを進めた。アイビートウコウとキョウシンムサシが形成するペースに無理なくついていくと、大けやきを過ぎたあたりから2番手に上がり、直線入り口付近では、力尽きたアイビートウコウを一気に捕まえに動いた。

 だが、この日のペースは、いつもよりはかなり速めだった。同じ東京2000mで行われた弥生賞と前半1000mのラップタイムを比べると、弥生賞が61秒8だったのに対し、この日は59秒8だった。このペースでのその場所からの仕掛けは、長い直線を考えると早すぎるものだった。先頭に立ったサクラチヨノオーだったが、それは他の馬から見れば、格好の目標以外の何者でもなかった。

 案の定、坂を上がったサクラチヨノオーに対し、中団で競馬を進めていたディクターランド、そしてヤエノムテキが一気に襲いかかってきた。14番人気と9番人気という気楽さを生かして一か八かの後方待機策を決め込んでいた彼らにとって、予想以上のハイペースとサクラチヨノオーの早仕掛けは、願ってもない有利な材料だった。

 いったん彼らに並ばれると、既にハイペースの追走と強引な仕掛けで余力を残していなかったサクラチヨノオーは、さほど抵抗することも出来ず、先頭を、そして皐月賞馬の栄光を譲らざるを得なかった。抜け出したのはサクラチヨノオーと同じ白い帽子のヤエノムテキで、それにディクターランドが続いてサクラチヨノオーは3着に敗れた。

『上がらぬ評価』

 人気どころがほぼ総崩れとなった皐月賞の結果、ダービーは皐月賞以上の「混戦ダービー」であると噂された。ダービートライアルでも、出走権を獲得したのはすべて皐月賞不出走組であり、皐月賞組と皐月賞不出走組との力関係も測れないまま、戦いは混迷の度合いばかりを深めていった。

 そんな中でサクラチヨノオーは、「総崩れになった」皐月賞組の中で唯一、ほぼ人気どおり(2番人気3着)の走りをした馬である。実績についても、既にGlと伝統のGllをひとつずつ勝っている彼が世代ナンバーワンといってよい。

 それでもサクラチヨノオーに対してささやかれたのは、期待ではなく不安ばかりだった。

「兄のサクラトウコウはマイラーだったし、距離の壁があるのではないか」
「ダービーを勝つには馬体が細くて、父のような力強さを感じられない」
「先行馬なのに並ばれてから味がなく、クラシックで通用する器ではない」

 サクラチヨノオーに関して聞こえてくるのは、そんな冷たい評価がほとんどだった。もっとも、だからといって他のダービー候補の中に素晴らしい評価を得た馬がいたわけでもない。この年のダービー自体が例年にはない大きな影を背負いこみ、例年の華やかさとは違った雰囲気があったことは否定できない。

『白い影』

 サクラチヨノオーの父であるマルゼンスキーは、先に書いたとおり、「持込馬」の宿命に泣き、ダービーへの出走を許されなかった。それから11年、サクラチヨノオーが向かうダービーは、父の無念の涙を乗り越えるための試練の戦いというドラマがあった。

 しかし、その半面で、この年のダービーでは、マルゼンスキーと同じように規則の壁に泣いた名馬のことが大きな議論を巻き起こしていた。それがオグリキャップである。

 オグリキャップは、当初地方競馬の笠松でデビューしたため、まさか中央のダービーに挑むことになるとは夢にも思わず、クラシックレースに出走するために必要なクラシック登録を行わなかった。そのためオグリキャップは、破竹の快進撃を開始して中央に転入しても、皐月賞、ダービー、菊花賞には出走することができなかった。中央入りしてからも初戦のペガサスS(Glll)を皮切りに毎日杯(Glll)、京都4歳特別(Glll)と3連勝して並々ならぬ実力を見せつけたオグリキャップについて、かつてマルゼンスキーの時がそうだったように、

「なぜ強い馬がダービーに出られない?」

という批判の声が高まった。オグリキャップが出られなかった皐月賞を勝ったのが、ペガサスSでオグリキャップにまったく歯が立たなかったヤエノムテキだったということで、

「ダービーの結果に関わらず、世代最強馬はオグリキャップ」

という声もあった。サクラチヨノオーが戦うべき相手は、皮肉なことに、父が泣いた規則による悲劇の主人公となった馬の白い影だった。

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