ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~
『迷い道』
こうして宝塚記念で悲願のGl制覇を果たしたダンツフレームは、その後北海道へと放牧に出された。
北海道に送られたダンツフレームは、激戦の疲労がピークに達しており、春に3戦しか走っていないとは思えないほどだったという。ダンツフレームの長所について問われた山内師は、
「いつも完全燃焼してくれる馬」
という点を挙げているが、それだけにレース後の反動も大きかった。この休養は、そんな彼を立て直し、秋のGl戦線でさらなる高みへと向かうための休養だった。
宝塚記念を制したダンツフレームではあったが、彼に対する種牡馬としての需要は、湧き上がってこなかった。勝った宝塚記念の相手関係が弱かったとはいえ、皐月賞、日本ダービー、そして安田記念2着の実績もあることからすれば、ダンツフレームというサラブレッド自身が弱いはずはない。だが、彼の父であるブライアンズタイム産駒の種牡馬たちは、早世したナリタブライアンをはじめ、種牡馬としては成功を収めていない。さらに、「母の父サンキリコ」という部分も評価を下げる要因となった。ダンツフレーム自身、父によく似た胴の太い・・・見た目のよくない体型であったことも災いした。そんな彼が種牡馬としての道を切り拓くためには、さらなる実績が必要だった。
しかし、その後のダンツフレームは、まるで燃え尽きたかのような不振が続いた。復帰戦の毎日王冠(Gll)では、勝ち馬マグナーテンから0秒6も遅れた5着に終わった。前哨戦を叩いて復調が期待されたGl戦線も、天皇賞・秋(Gl)は14着、続くマイルCS(Gl)は17着という屈辱的な結果に終わった。それまで掲示板を外したことすらなかったダンツフレームが2戦続けて2桁着順に沈んだのだから、周囲から
「ダンツフレームはどうしたのか」
という声があがるのは当然であった。
『信頼を取り戻すために』
競走馬の使命は「勝つこと」と言われるが、その使命を果たした馬に訪れるのは単なる安楽ではなく、種牡馬としての価値がある者ですら、種牡馬という新たな戦場への切符を得られるにすぎない。ましてそれを持たない者を待つものは、「勝ち続けること」という、より過酷な使命しかない。後者であるダンツフレームの前にたちはだかるもの・・・それは、もはやライバルたちではなく、「現実」そのものだったかもしれない。
翌春になってからも、ダンツフレームの復活の糸口は、なかなかつかむことができなかった。マイラーズC(Gll)で4着に破れると、今度は標的を長距離に戻して天皇賞・春(Gl)に出走したものの、ここでもヒシミラクルの5着・・・。前年の秋に比べればマシではあるが、前年春のグランプリホースとしては、あまりに物足りない成績である。競馬界ではダンツフレームの「限界」がささやかれるようになり始めた。
天皇賞・春で敗れたダンツフレームは、その後中1週で、新潟大賞典(Glll)に出走することになった。新潟大賞典は、ローカル開催のハンデGlll である。16頭の出走馬のうちGl馬はダンツフレームただ1頭、重賞勝ち馬さえ彼を含めて6頭しかいないというメンバーからも分かるとおり、このレースは本来グランプリホースにまで登りつめた馬の出るべきレースとはいえない。Gl馬としての格もプライドもすべてを擲ち、それでも彼が欲したもの・・・それは、重ねた敗北によって傷ついた権威を取り戻すために、その足がかりとなるただひとつの勝利だった。
JRAのハンデキャッパーたちは、場違いなレースに出てきた感のある唯一のGl馬に対し、実に59kgの斤量を与えた。彼に次ぐ斤量を背負ったのが重賞4勝のロサードだが、それでやっと57kg、他の馬はすべて56kg以下でしかない。抜けた実績がありながら、その実績にふさわしい斤量も同時に与えられたダンツフレームに対し、ファンが与えた単勝支持は360円と、2番人気で500円のタフネススターとそう差がないものだった。圧倒的な実績にもかかわらず、全幅の信頼はもはや得られない。それが、宝塚記念以降のダンツフレームの1年間に対するファンの評価であった。
『越後路の復活劇』
この日のダンツフレームは、スタートでダッシュがつかず最後方からの競馬になってた上に、前の馬群が激しくごちゃつく難しい展開に巻き込まれてしまった。改修工事によって直線が長くなった新潟競馬場だが、だからといって14番手から届くのか、また混み合う馬群をさばき切れるのか。それらの懸念は、既に信頼を何度も裏切られてきたファンに、さらなる不安をもたらすには十分すぎるものだった。
案の定、第4コーナーを回って直線に入ってからのダンツフレームは、前の馬たちをかわすのに手間取っているように見えた。そろそろ末脚を見せなければ、ゴールまでに届かない。ダンツフレームは・・・それでも来ない。
ダンツフレームの豪脚が炸裂したのは、レースが最終局面を迎えてからだった。残り200mの看板を通過した頃に、ようやくスロースターターのダンツフレームの闘志と末脚に火がついた。馬群を力ずくで抜けるとそのまま引き離し始めたのである。
ダンツフレームが馬群から抜け出したのは、ゴールのほんの手前だった。だが、いったん力を発揮すれば、ダンツフレームとローカルGlllクラスの馬たちの実力差は歴然としている。ダンツフレームは、わずか数十メートルの攻防で後続に1馬身半差をつけた。上がり3ハロン、33秒7。高速決着となりやすい新潟の直線とはいえ、ダンツフレームは過去最高・・・そして生涯最速となる上がりを記録して混戦に終止符を打ち、グランプリホースの地力と誇りを見せつけたのである。
ダンツフレームは、1番人気とトップハンデに応えての、宝塚記念からほぼ11ヶ月ぶりとなる勝利を手にした。・・・それは、ダンツフレームにとって生涯最後の勝利であった。