ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~
『突き放されて』
ローエングリンの大逃げによって意外な形ながらも落ち着いていたレースが動き始めたのは、残り1000mを切ったころだった。十分な余裕を持って逃げているローエングリンに痺れを切らしたのか、まずはトウカイポイント、エアシャカールといった先行勢がその差を詰め始めた。すると、後続の馬たちも、彼らに触発されたかのようにいっせいに動き始めた。
それまでは5馬身ほどあったローエングリンと2番手のトウカイポイントの差だが、堰を切ったように動いた後続の動きの前に、第3コーナーから第4コーナーのあたりでは早くも馬群につかまり、ローエングリンは先頭の維持さえも風前の灯・・・に見えた。
ところが、ローエングリンが強さを見せたのは、その後だった。一気に前に出るかに見えたエアシャカール、トウカイポイントらを相手にさらなる二枚腰を見せ、馬群に飲まれるどころか逆に後続をもう一度突き放したのである。
レースが終盤を迎えたこの段階での思わぬ展開に、ファンは息をのんだ。
「史上初めての3歳馬の戴冠か?」
・・・ダービーを賞金不足で除外された3歳馬が、そのわずか1ヶ月後、古馬の一線級を相手に、夏のグランプリ宝塚記念を制する事態を、どれほどのファンが予想していただろうか。馬券の上でいえば、単勝3番人気ローエングリンの戴冠は、「意外」どころか順当とすらいえるのだが、それでも「ローエングリンは3歳馬」という事実を脳裏に刻み込んでいた多くのファンにとっては、衝撃以外の何物でもない。思わぬ展開に、場内が騒然となる。
一方、エアシャカールをマークしていたダンツフレームは、そのエアシャカールがローエングリンに置き去りにされる形となったことで、完全に虚を衝かれた形になった。藤田騎手の右鞭が水車のようにダンツフレームを励ますものの、もともと一瞬の切れ味で勝負するタイプではないだけに、ダンツフレームのエンジンのかかりは、どうしても遅い。ローエングリンの粘りの前に、エアシャカールともども突き放されていくダンツフレームに、レースを見守っていた山内師も
「これは届かないと思った」
とレースを諦めかけたという。
『逆転のゴール』
ダンツフレームが、それまでもみあっていたエアシャカール、トウカイポイントらを抑えて前に出たのは、レースが残り100mを切った後のことだった。そんな彼の外からは、金鯱賞(Gll)を勝ったツルマルボーイが、さらにいい脚を使って伸びてくる。意外と伸びないダンツフレームの手応えに焦りを感じていた藤田騎手は、背後から迫る脚色・・・ダンツフレームの脚色を凌駕する気配を感じ、
「かわされる!」
とひそかに怯えた。
だが、後方から迫る影は、ダンツフレームの闘志に火を点ける結果となり、彼の末脚には一気に加速がついた。
山内師は、かつてダンツフレームについて、
「併せる形でなく、抜け出す形にしないと・・・」
と評したことがある。それまでのダンツフレームは、並んでからの競り合いに弱く、それゆえに勝てるレースをいくつも落としてきた。かといって一気に抜け出すほどの一瞬の瞬発力にも欠け、それゆえに早めに抜け出す形にもなかなか持っていけない。それが、ダンツフレームが早くからクラシック戦線の上級馬として活躍していながら、通算4勝、重賞は1勝だけにとどまっていた理由である。ところが、この日のダンツフレームは、それまでのあがきが嘘であったかのように、驚異的な脚を見せた。
ダンツフレームの末脚は、凄まじい切れ味で後方から飛んできたツルマルボーイと並んでも、そこから抜かせることはなかった。粘るローエングリンをとらえてかわし、追撃してくるツルマルボーイと並びながらも、一緒にゴールへと駆け込む。
藤田騎手は、この時のツルマルボーイとの勝敗について、
「ゴールまで分からなかった」
という。だが、この時のダンツフレームは、はっきりとクビ差前に出ていた。こうしてダンツフレームは、3度の2着を経て、6度目の挑戦にして悲願のGl制覇を果たした。いつも栄光にあと一歩のところで退けられ、それでもあきらめることなく戦い続けたダンツフレームは、長い戦いの末、ようやく栄光の美酒にたどり着いたのである。
『たどり着いた美酒』
レースの後、藤田騎手は
「ズブいところがあるので4コーナーでヒヤッとしたけど、外からツルマルが来て、もう一度頑張ってくれた。ひとつ勲章を獲れてうれしい」
と安堵の表情を見せた。自分から山内師に頼み込んで騎乗の機会を得ただけに、期待と信頼に応えて使命を果たしたことへの満足感も、より際立ったものがあった。
管理調教師の山内師は、95年にダンツシアトルで宝塚記念を既に制しているため、この日は2度目の制覇となる。だが、自ら山元氏を海外のセリまで連れていき、しかも自分の好きなSeattle Slewの子ということで買ってもらったダンツシアトルに比べると、ダンツフレームの山内師自身の評価は低く、むしろ走ると分かった時に
「馬体を見ただけで『こんな馬、走らん』なんて、絶対にいえない・・・」
と漏らしたほどだったから、同じレースの優勝でも、ホースマンとしての衝撃にはまったく異質なものがあった。クラシック戦線から苦労に苦労を重ねた末のGl戴冠だったこともあわせ、
「ダンツシアトルの時よりも嬉しかった」
というコメントは、決して誇張ではなかったことだろう。
確かに、宝塚記念を勝った時、ダンツフレーム陣営の人々は、様々な思いを感じたに違いない。それまでの苦労か、未来への野望か、それともまた別のものだったのか。・・・しかし、それは「ダンツフレーム自身」、人ならぬサラブレッドであるダンツフレームにとって、どのような意味を持っていたのだろうか。その問いの意味に、この時点で気づいた者は、まだ誰もいない。