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ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~

『最初の引退』

 新潟大賞典を制して約11ヶ月ぶりの勝利を挙げたダンツフレームは、その勢いで中央のGl戦線へと復帰し、前年に続いて安田記念(Gl)、宝塚記念(Gl)に向かうことになった。

 だが、新潟大賞典は、悲しいかなローカルのハンデGlllである。このレースを勝ったとはいえ、それが本来の輝きを取り戻す保証とはならない。・・・その後のダンツフレームにも、かつての輝きはなかった。

 安田記念でのダンツフレームは、最後の3ハロン34秒1というすばらしい末脚を見せたものの、展開に利なく、5着に破れた。次走の宝塚記念でも、前年の覇者として前年の年度代表馬シンボリクリスエス、奇跡の馬ヒシミラクルに続くファン投票3位で選出されて出走したはいいが、その期待に応えることはできなかった。第4コーナーで勝ったヒシミラクルとほぼ並ぶ位置にいたにも関わらず、そこから伸びず、ヒシミラクルだけでなく後ろから来たネオユニヴァース、ツルマルボーイらにもかわされた。結局ヒシミラクルから遅れること約3馬身、着順も7着という「完敗」だった。

 そして、ダンツフレームの雄姿は、その日を最後にターフから消えた。秋のGl戦線に備えて調整に入っていた9月、屈腱炎を発症したダンツフレームは、そのまま戦線を離脱してしまった。

 この時、ダンツフレームの脚の状態は、著しく悪化していた。2歳時から3年にわたって一線級で走り続けてきた疲労は、彼の脚を奥深く蝕んでいたのである。

「競走馬としての復帰は不可能」

 そんな獣医の診断が報じられ、やがてダンツフレームの競走馬登録は、抹消された。新潟大賞典を復活のきっかけにしてほしいという願いは、果たされなかった。彼の今後の進路については、

「種牡馬入りの道を模索中」

とされていた。・・・この時、彼がその後歩む馬生を誰が予想することができただろうか。

『消えた宝塚記念馬』

 ダンツフレームの消息が一部のファンの間で話題になり始めたのは、しばらく経ってからのことだった。

「ダンツフレームが行方不明になったらしい・・・」

 普通、種牡馬登録する馬は、引退前、または引退直後に繋養先が決まる。繋養先が決まれば種牡馬登録もなされ、行き先も公示される。ところがダンツフレームは、「種牡馬入りの道を模索中」などという見慣れない記載がされていたにもかかわらず、いっこうに種牡馬登録をされる気配がなかった。

 Glを勝った牡馬が、引退後に種牡馬登録がされない・・・その事実は重い。種牡馬登録がされない引退馬は、ただの乗馬でしかない。行き先が公表されていない乗馬は、一般的なファンには消息を知る由もない。彼らが聞くのは、裏づけを持たない憶測ばかりだった。

 憶測を打ち消す方法は、ふたつしかない。ひとつは、憶測が誤りであることを証明する別の事実が明らかになること、もうひとつは時間の経過とともに忘れ去られ、憶測自体が存在意義を失うことである。だが、ダンツフレームの場合、憶測を打ち消すような事実は明らかにならなかったし、また忘れ去られるには、Gl馬という存在感が大きすぎた。他のケースなら当然のように与えられる情報が与えられない状況のもとでの憶測をとどめるものは、何もなかった。一部では、

「ダンツフレームは、もう処分されたのではないか・・・」

という噂までされるようになった。

 日本の競馬界においては、すべてのGl馬が幸福な死を迎えているわけではない。種牡馬失格の烙印を押された後、観光用の馬車を引く使役馬として酷使され、熱射病で死んだとされる皐月賞馬ハードバージ、やはり種牡馬として失敗し、その行方を知る者もないまま消えていった宝塚記念馬オサイチジョージのような例も、容易に見出すことができる。それに加えて、近年の馬産地の構造不況と種牡馬の供給過剰は、当時の競馬ファンなら誰もが知っていた。噂が一人歩きする素地は、もともと十分にあった。

『道をなくして』

 やがて、ダンツフレームは静内のある牧場に繋養されていたことが判明し、処分されたという最悪の結果は、事実によってようやく否定された。だが、彼の種牡馬登録がなされていないという事実に変わりはない。なぜ種牡馬登録をしないのか?関係者が彼に何を求めて中途半端な状態を続けているのか?・・・ファンのそうした疑問に答えが与えられるのは、もう少し先のことだった。

 ダンツフレームは、引退後もしばらくは普通のGl馬がそうであるように、種牡馬入りの可能性が検討されていた。だが、彼の血統と馬体に対する馬産地の評価は低く、宝塚記念優勝、Gl2着3回という実績によっても、それをカバーすることはできなかったという。

 「父ブライアンズタイム」・・・サンデーサイレンスに次ぐ地位を占める大種牡馬の直系たるその血統は、本来もっと高く評価されてもおかしくないはずである。しかし、ブライアンズタイム産駒で種牡馬となった馬たちは、早世したナリタブライアンを筆頭に、種牡馬として成功していなかった。

 ダンツフレームは、一見して胴が太い・・・見た目のよくない体型だった。この体型は、実はブライアンズタイムの特徴をそのまま受け継いでいる。ブライアンズタイムの代表産駒たちには、彼と同じ体型の馬が多い。だが、この特徴は、馬の人気が見た目に左右される風潮のもとでは、大きなマイナスとなる。

 また、ブライアンズタイムという種牡馬は、よくライバルとして比較されるサンデーサイレンスとは対照的に、Northern Dancer、Mr.prospector、Blushing Groomといった主流血統だけでなく、あっと驚く零細血統から活躍馬を出すという特色を持っている。1997年の二冠馬サニーブライアンの母父はサニースイフト、同年の有馬記念馬シルクジャスティスの母父はサティンゴだし、2002年のダービー馬タニノギムレットの母父はクリスタルパレスである。1996年の朝日3歳S(Gl)を制したマイネルマックスに至っては、母父は「あの」ハイセイコーである。

 ブライアンズタイムが時代の主流から外れた血統構成からGl馬を輩出し続けている背景として、他のリーディング上位の種牡馬たちの多くとは異なり、中小規模の馬産農家が広がる日高地方に繋養されていた点が挙げられる。社台ファーム、ノーザンファームを中心とした早来、千歳の社台グループへの一極化が急激に進行する時代の中で、時代の最先端とは別世界にいる繁殖牝馬が多く残った日高地方で、ブライアンズタイムは生きていた。そんな彼の零細血統との相性の良さは、日高の馬産家たちの救世主といっても過言ではない。

 だが、冷酷な時代の中で、父の長所はそのまま息子の短所とされた。もともと血統的評価に微妙さをはらんでいたダンツフレームにとって、「母の父サンキリコ」という血統的背景は、それが彼自身によってはどうにもならない部分・・・生まれる以前から宿命づけられた要素であったにも関わらず、それは決定的・・・致命的なものとして、血統的な評価を切り下げられる結果となった。

 ダンツフレームの馬主のもとには、種牡馬入りの話も持ち込まれていた。だが、その評価はあまりに低くて折り合わず、すべて流れてしまったという。だが、引退直後に種牡馬入りできなかった馬の場合、その後に評価を上げる要素、つまり種牡馬成績が存在しない以上、後になってよりよい条件で種牡馬入りできるはずもない。・・・進むべき道を失ったダンツフレームは、ついに過去のGl馬たちには例のない新たな扉を叩くに至る。

『荒尾にて』

 ダンツフレームの「引退」からほぼ1年が経過した2004年9月、競馬界に衝撃とともに、こんなニュースが走った。

「ダンツフレーム、荒尾競馬で現役復帰へ・・・」

 荒尾競馬は、荒尾市(熊本県)が2011年まで主催していた地方競馬である。荒尾競馬への中央Gl馬の転入といえば、1999年の東京大賞典(統一Gl)勝ち馬ワールドクリークが転入して現役を続行した前例もあり、統一GlとJRAのGlという違いはあれど、過去にまったく例のないことではない。

 それでも、誰も予想しなかったニュースに見る人はみな目を疑い、何かの冗談だろうとして、この報を信じないファンも少なくなかった。

 競馬界でのGl馬の現役復帰をめぐる騒動といえば、2000年9月の「グルメフロンティア復帰騒動」を忘れてはならない。この騒動は、インターネット上の匿名掲示板に「フェブラリーS(Gl)を勝ったグルメフロンティアが、笠松競馬で現役に復帰するらしい」という書き込みがなされ、それを信じ込んだ競馬評論家がその「ニュース」を競馬専門誌で記事にしたところ、それがまったくの誤報・・・というより冗談だった、というものである。グルメフロンティアの場合はいったん種牡馬登録がされていたが、ダンツフレームはされていないという違いがあるとはいっても、競馬界を騒がせた騒動の記憶を持っていれば、なおさらこのニュースをすんなり信じることができないのも道理である。

 ・・・ところが、ダンツフレームの復帰は、グルメフロンティアのときとは違って、事実だった。これまで1700勝を超える勝ち星を挙げ、24人の荒尾競馬の現役調教師の中で最多の勝利数を誇り、かつてフジノマッケンオー、インターフラッグといった中央の強豪を受け入れたこともある荒尾の名門・宇都宮徳一厩舎で、ダンツフレームは競走生活に復帰したのである。

 ダンツフレームは、当初南関東の浦和競馬で復帰する予定だった。しかし、南関東競馬では過去8ヶ月以上出走していない馬の転入を認めていない。そこで、調教で馬体を絞るとともに、レースへの出走の実績をつくるため、1戦だけ荒尾で使うことになった・・・というのが真相だった。

「ブランクが長かったので、まだシャキッとしていませんが・・・。屈腱炎の方は、今の状態を維持すれば大丈夫。かつては中央で金メダル(Gl)を獲得した馬。荒尾をステップにもっと大きな舞台への復帰を目指してほしい」

というのが、ダンツフレームを受け容れた宇都宮師の弁だった。

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