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ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~

『潜行』

 2戦目で初勝利を挙げた後のダンツフレームは、ソエが悪化したこともあって約2ヶ月の休養をとり、その後2勝目を目指し、ききょうS(OP)へと出走した。

 ダンツフレームにとってのききょうSは、初めての芝、初めての1400mという距離ではあったが、鞍上には武豊騎手を迎え、さらに最終追い切りでも1歳上、しかもこの年のオークス馬であるシルクプリマドンナに先着したという内容が考慮されたか、単勝140円という断然の1番人気に支持された。そして、実際のレースでも鋭い末脚で馬群を突き抜けた彼は、ホーマンミヤビに3馬身半差をつけ、見事に人気に応えて快勝した。

 次いで河内洋騎手とのコンビで野路菊S(OP)に出走したダンツフレームは、単勝120円というききょうS以上の人気を集めたが、やはりリニアミューズに半馬身差をつけたまま先頭でゴールした。デビュー戦の2着の後は、これでオープン特別2勝を含む3連勝である。

 この戦績ならば、朝日杯3歳S(Gl。年齢は当時の旧表記)、ラジオたんぱ杯3歳S(Glll。年齢は当時の旧表記)というレースに出走するという選択肢も十分に考えられる。しかし、山内師の選択は、違った。山内師は、ファンの注目が集まるこれらのレースには見向きもせず、2歳戦をさっさと切り上げて休養させることに決めたのである。

「ここで賞金を稼いだ以上、これ以上無理に賞金を積み重ねなくても、翌年のローテーションを自由に組むことができる」

 賞金を稼ぐ必要がないならば、無理にレースに使って消耗させることは避け、翌年のクラシック戦線への力を蓄える・・・。それもまた、ひとつの作戦である。しかし、山内師の考えが本当にそれだけだったかどうかは疑問が残る。当時の山内師は、いまだにダンツフレームの能力を信じきれてはいなかった。

「どうしてこんなに走るのかが分からない・・・」

 それは、当時の山内師がダンツフレームについて評した言葉である。山内師ですら「走る理由」が分からないダンツフレームだが、考えてみれば、3連勝したとはいっても、それらのレースには世代の大将格と呼ばれる馬たちどころか、上位馬と呼ばれる馬すら存在しない。ならば、相手関係の薄いところを勝ちあがってきたばかりのダンツフレームを、いきなり世代の大将格が集まる朝日杯3歳S、ラジオたんぱ杯3歳Sにぶつけるのは酷・・・。そんな考えの方が強かった。

 結果的に、山内師の選択は、同世代の中でのダンツフレームの力関係を見えにくくすることになった。2歳時のダンツフレームの戦績は、4戦3勝2着1回である。すべてのレースで1番人気に支持され、戦績も100%の連対率を誇る。しかし、ダンツフレームが戦線を離れている間に、朝日杯3歳Sでは天皇賞馬メジロブライトの半弟メジロベイリーが波乱のレースを制し、ラジオたんぱ杯3歳Sではダービー馬アグネスフライトの全弟アグネスタキオンが、ジャングルポケット、クロフネといった大器を破って世代の一線級へと躍り出た。そんな世代のトップ級とは、一度も対戦していない。

 ダンツフレームは、世代のトップ級の馬たちの力関係をはっきりしないまま、地下に潜行してしまった。ダンツフレームの戦績は、果たして額面どおりにとっていいものか、それとも薄い相手関係に助けられてのものなのか。その問いに対する答えは与えられることのないままに、ダンツフレームの2000年は暮れていった。

『新世紀の夜明け』

 年が明け、ダンツフレームは2001年・・・21世紀最初のクラシック戦線に臨むことになった。クラシック戦線の始まりを告げるきさらぎ賞(Glll)で、彼の鞍上には、前年のききょうSでもコンビを組んだ武騎手の姿があった。

 この日の出走馬たちを見ると、2戦2勝のアグネスゴールド、3戦3勝のシャワーパーティー、前走のシンザン記念(Glll)で重賞勝ちを果たしたダービーレグノ・・・といった、クラシックに向けて名乗りをあげんという強豪たちも出走していた。2歳時には実力をベールに隠したまますべてを見せてはいなかったダンツフレームにとって、それは最初の試練でもあった。

 しかし、3番人気に支持されたダンツフレームは、中団待機から直線で鋭く伸びた。後方からさらに鋭い脚でアグネスゴールドが追い上げてきても、ダンツフレームはその豪脚に抵抗し、ファンを驚嘆させる。

「この馬は、かなり強いかもしれない・・・」

 最後には力尽きて差し切られたものの、クラシックの本命の一角と目される強豪アグネスゴールドとわずか半馬身差の2着に入ったことで、ようやくダンツフレームは周囲から「クラシック候補の一角」とみられるようになった。ダンツフレームについてはいつも弱気だった山内師も、この1戦でようやく自信をつけたのか、次走のアーリントンC(Glll)については

「ここは勝ちにいく」

と豪語するようになった。

 ただ、アーリントンCというレースの選択自体に弱気が漂うことも、決して否定できない現実である。もともと一流馬の出走が少ないこのレースには、この年もダンツフレーム以外に「強豪」と呼ばれるような馬の参戦はなく、せいぜいそれまで8戦2勝、朝日杯3歳S(Gl)4着のメイショウドウサンが対抗に推される程度の力関係でしかない。これでは、ダンツフレームが単勝120円という圧倒的人気を背負うこともやむを得ない。

 人気の重圧を背負ったダンツフレームは、人気薄のキタサンチャンネルによるスローの逃げに幻惑されながら、最後は次元の違う豪脚を繰り出し、キタサンチャンネルをハナ差とらえて重賞初制覇を飾った。

「もう少し楽に勝てるレースだった」

という声もあるにはあったが、まずは勝利こそが何よりの出発点である。また、旧3歳時に5戦5勝の戦績を残して「ダービー候補」とうたわれたが、旧4歳時にはたちまち失速し、3戦未勝利のまま引退してしまった母の父サンキリコの背景から「旧3歳戦だけ」「マイルまで」という見方もあった少なくなかったダンツフレームだが、きさらぎ賞2着、アーリントンC優勝という実績を重ねることで、それらの見方が誤りであることを証明してもいた。気がつくと、ダンツフレームは通算成績6戦4勝、2着2回の実績馬として、世代のトップクラスの1頭に数えられるようになっていた。

『揺れる明日』

 しかし、その後のダンツフレーム陣営が見せた揺れ・・・それは、「世代のトップクラス」と呼ばれる馬には似つかわしくないものだった。アーリントンCを制したダンツフレームは、その後皐月賞(Gl)のトライアルレースに出走しなかった。・・・というより、皐月賞への出走自体を明確にしようとはしなかったのである。

 この年の中山競馬場は、芝の生育が遅く、馬場状態も極めて悪かった。有力馬の故障も多く、前年暮れの朝日杯3歳S(Gl)ではクラシック戦線の有力候補と期待されていたタガノテイオーが、レース中に故障を発症したため、2着入線後に予後不良となった。また、有馬記念(Gl)で伏兵視されていたツルマルツヨシも、やはりレース中の故障によって競走生命を失っている。さらに、きさらぎ賞でダンツフレームを破ったアグネスゴールドまで、スプリングS(Gll)を勝った後、皐月賞を迎えることなく故障が発覚して戦線を離脱しており、中山の芝コースはさながら「魔のコース」の様相を呈していた。

 この時期に、山内師は

「今年の中山は、できれば使いたくない・・・」

と漏らしていたという。ここでいう「中山」には、弥生賞(Gll)やスプリングS(Gll)といった皐月賞トライアルはもちろんのこと、クラシックの一角である皐月賞も含まれていた。

 しかし、「皐月賞は使わない」と口で言うことはたやすいが、それを実行することには多大な犠牲を伴う。皐月賞とは、一生に一度しかチャンスがない「クラシック三冠」の第一弾である。皐月賞を回避すれば、その時点で日本競馬の最高の栄誉である「三冠馬」たる資格は永遠に喪われる。

 さらに、ダンツフレームの場合、皐月賞を回避してまで挑むはずの日本ダービーには、「距離適性」という壁がたちふさがっていた。自らの戦績によって「早熟馬」という風評には終止符を打ったダンツフレームだが、距離適性についてはいまだ決着がついていない。

 ダンツフレームの血統は、ブライアンズタイムはともかく、母の父サンキリコは明らかにマイルまでの馬だった。また、ダンツフレーム自身、彼がそれまで走ったレースは1800mまでの距離ばかりだったが、そこで見せてきた瞬発力は、いかにも「短距離馬ゆえの切れ味」というものを連想させた。もしダンツフレームが本当にマイラーだとすれば、2000mまではなんとか勢いで乗り切れるかもしれないが、それより長い距離ではとても太刀打ちできないだろう。まして、日本屈指の本格コースである府中2400mの日本ダービーとなれば、なおのことである。

 この時の山内師は、ダンツフレームを皐月賞、日本ダービーと続くクラシック戦線ではなく、NHKマイルCから安田記念へ続くマイル戦線に進ませるローテーションを考えていた。かつて、あらゆるサラブレッドが目標とした「三冠」。短距離血統であってもダート馬であっても、そのレースだけはすべてを擲って挑戦する。それがかつての皐月賞であり、また日本ダービーだった。それが、「馬場状態」、「距離適性」などの理由で、故障もないのに回避が検討されるようになったということは競馬界の価値観の多様化と、伝統的な「三冠」の価値の揺らぎを示す象徴的な出来事でもあった。

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