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ダンツフレーム列伝 ~焔の墓標~

『定まった道』

 皐月賞、2着。この日の結果は、ダンツフレーム陣営の人々に様々な波紋を投げかけた。この日の結果に特に大きな「衝撃」を受けたのは、デビュー前から彼のことを高く評価せず、皐月賞の直前までローテーションすら確定できなかった山内師だった。

「馬体を見ただけで『こんな馬、走らん』なんて、絶対にいえない・・・」

 山内師は、ようやく自らの相馬眼がダンツフレームの真実をとらえていなかったことを認めた。それとともに、もし自分がもっと早くこの馬の本質を見抜き、皐月賞に絞った調整ができていればと思うと、馬に対して申し訳が立たなかった。

「同じ過ちは、もう繰り返さない・・・」

 山内師は、今度こそ決意した。これまでのダンツフレームにつきまとっていた血統・・・特に母系から来る「マイラー」「早熟」という懸念は、ダンツフレーム自身が皐月賞2着という結果によって振り払ってくれた。ならば、山内師もこの馬の背景ではなく、この馬そのものを見なければならない。不安だった2000mで見せた走りは、断じて一介のマイラーのものではなかった。

「NHKマイルC(Gl)ではなく日本ダービー(Gl)へ・・・」

 山内師は、今度こそ日本競馬の最高峰への挑戦を決めた。ダンツフレームにとってただ1度のクラシックの道が、ようやく定まった。

『予期せぬ新コンビ』

 ただ、ダンツフレームが日本ダービーに臨む場合、必ず直面しなければならないのが、皐月賞に続く鞍上問題だった。

 皐月賞で騎乗してもらった藤田騎手は、日本ダービーではもともとのお手馬であるチアズブライトリーに騎乗することになっていたため、皐月賞の騎乗は1戦限りの約束だった (チアズブライトリーは日本ダービー直前に故障を発生し、出走できず)。そこで山内師が鞍上の「本命」に考えていたのは、もともとの主戦騎手であり、欧州遠征中だったために皐月賞には帰ってこれなかった武豊騎手だった。皐月賞では欧州での騎乗を優先させた武騎手だったが、日本ダービーについては、現地のホースマンたちから

「どこの国でも、ダービーは特別なレース。依頼がある以上、乗らなければいけないよ」

と背中を押され、今度こそ帰国して騎乗するとみられていた。

 山内師は、武騎手に日本ダービーでのダンツフレーム騎乗を依頼した。・・・だが、武騎手にはもう1頭、NHKマイルCを制したクロフネというお手馬がいた。クロフネは、この年からダービーへの出走を許されたばかりの外国産馬の雄である。ダンツフレームとクロフネ・・・この2頭の比較では、大物感でクロフネが上であるというのが一般的な評価であり、武騎手が選んだのも、やはり皐月賞2着馬ダンツフレームではなく、NHKマイルC馬クロフネだった。

 第68回日本ダービー当日、ダンツフレームの鞍上には、河内洋騎手の姿があった。幸運と言っては語弊があろうが、河内騎手は皐月賞馬アグネスタキオンを屈腱炎で失い、ダービーでの乗り馬がいなくなってしまったのである。河内騎手は、ダンツフレームには既に野路菊Sで騎乗していたため、あとの話はスムーズだった。とはいえ、前年にアグネスフライトで悲願のダービー制覇を果たし、この年はアグネスタキオンでダービー連覇を狙うはずだった河内騎手にとって、まさか乗り馬がアグネスタキオンではなくダンツフレームに替わるということは、皐月賞当時は夢にも思っていなかったに違いない。

『戦場に立つということ』

 ダービーの朝、府中競馬場には雨が降りしきっていた。雨自体はダービー出走までにやんだものの、馬場は「重」のままで、1985年以来16年ぶりの「重馬場ダービー」となった。他のどの馬よりも速くゴールを駆け抜けるスピード、2400mに耐え抜く距離適性と精神力に加え、荒れた馬場に対応するパワーと技術をも兼ね備えるただ1頭・・・それだけが、第68代日本ダービー馬として世代の頂に君臨することができる。

 日本ダービー・・・日本競馬における唯一無二の神聖なレースに臨むダンツフレームは、単勝230円のジャングルポケット、同じく300円のクロフネに次ぐ、単勝610円の3番人気に支持された。それまでの7戦すべてに連対してはいるものの、すべて良馬場での戦績で、重馬場への対応力は未知数なダンツフレームだったが、ただひとつの頂を目指す以上、そんなことを気にしてはいられなかった。無論、それはダンツフレームだけではない。ジャングルポケット、クロフネ、そしてこの日ゲートにたどり着いたすべてのサラブレッドたち・・・。彼らにとって、戦うこと、そして勝つことは、生きるために義務づけられた宿命だった。

 だが、そんなダンツフレームを見守りながら、

「いかに無事が大切なことか・・・」

とつぶやいたのは、彼を生産した信岡牧場の場長・信岡幸則氏だった。2001年牡馬クラシック戦線の有力馬たちをながめてみると、皐月賞馬アグネスタキオンをはじめ、無敗でスプリングS(Gll)を制したアグネスゴールド、前年の朝日杯3歳S(Gl)を勝ったメジロベイリー、プリンシパルS(OP)勝ち馬ミスキャスト、そして皐月賞ではダンツフレームに騎乗した藤田騎手が選んだチアズブライトリー・・・と故障が相次いでいた。

 信岡氏は、ダンツフレーム以前に生産した馬の中で最も印象深かった馬・・・桜花賞馬ワンダーパヒュームがレース中の事故で命を落としたことを知っている。しかも、彼女の半弟で、やはりクラシック戦線を沸かせたワンダーファングも、その後同じ運命をたどっている。そんな悲しみを知るからこそ、ダンツフレームの姿を知らず知らずのうちに非業の死を遂げた姉弟と重ね合わせ、

「無事にコースを回ってきてほしい・・・」

という祈りに身をこがしたのも、当然のことだろう。この日ゲートに入った18頭は、いずれも過酷な戦いを戦い抜いてきた勇者たちであり、この年のダービー馬に輝く可能性を残した最後の18頭であるこの場に立つことができなければ、勝利はありえない。

 とはいえ、競馬界は、「ダービーに参加すること」だけで未来が保証されるほど甘くもない。サラブレッドに与えられた未来の椅子はあまりに少なく、それを勝ち取るためには、参加することではなく勝つことが求められるというのもまた事実だった。

『暴走』

 2001年の日本競馬最大の祭典・日本ダービーの戦いの火蓋を切ったのは、ジャングルポケットでもなければクロフネでもなく、そしてダンツフレームでもなかった。それは、2歳時に京王杯3歳S(Gll。年齢は当時の数え年表記)を勝ち、デイリー杯3歳S(Gll)、小倉3歳S(Glll)で2着に入った実績があるものの、3歳になってからは2戦とも掲示板にすら残れず、16番人気とすっかり人気を落としていたテイエムサウスポーだった。ほとんどのファンが馬券の検討の対象にすらしなかった伏兵によって、この日の府中は、そして第68回日本ダービーは、激流の中へと呑み込まれていった。

 ゲートが開くと同時に、ダンツフレームは勢いよく飛び出した。河内騎手の意思で折り合いをつけて馬群へと下がっていくダンツフレームの動きは、十分に調子のよさを感じさせるものだった。ジャングルポケット、クロフネは中団よりやや後方にいるが、そんな強敵たちの動きも気にならないほどである。

 しかし、馬群の先頭では、そんな有力馬たちの位置取りを忘れるほどの激しい光景が展開されていた。当初先手を取るかに思われたキタサンチャンネルにテイエムサウスポーがハイペースで競りかけ、先頭を奪い、さらにその後もそのままハイペースを維持し、キタサンチャンネル以下を引き離しての壮絶な大逃げを打ったのである。

 テイエムサウスポーとキタサンチャンネルとの差は、レースが進むにつれて次第に広がっていった。テイエムサウスポーの派手な大逃げに、スタンドもどよめく。1000m通過タイム、58秒4。・・・これは、日本ダービー史上最速のラップである。ダービーの歴史を語る際に必ず語られるハイペースの象徴であり、やはり「暴走」と言われたカブラヤオーのダービーですら、1000m通過タイムは58秒6だったというのに・・・。

 もっとも、カブラヤオーは1番人気の皐月賞馬であり、ダービーも「暴走」しながらそのまま逃げ切った。その点テイエムサウスポーは、16番人気の人気薄である。この日は馬場状態も悪い。そのまま逃げ切れるはずがなかった。・・・それでも鞍上の和田竜二騎手は、ペースを緩めようとしない。予期せぬハイペース・・・それは、有力馬の騎手たちにそれぞれの決断を迫るものだった。

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