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ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

『ライバルたちの軌跡』

 1994年春競馬の頂点を決する第109回天皇賞・春(Gl)は、ナリタタイシンにとって完全復活を賭け、さらに頂点を極めるための戦いとなった。

 もっとも、前年の有馬記念(Gl)を制したトウカイテイオーは骨折による休養(後にそのまま引退)のため、出走していなかった。前年のクラシックでライバルの1頭だったウイニングチケットの名前もない。前々年の菊花賞、前年の天皇賞・春を制し、3200mという長距離に適性を持つライスシャワーも、レースを直前に控えて骨折が判明し、戦線を離脱していた。

 この日のナリタタイシンにとって、ライバルはただ1頭、ビワハヤヒデだけと言ってよかった。ナリタタイシン、ウイニングチケットと並ぶ「平成新三強」の一角であり、前年のクラシック三冠を分け合ったライバルが、再びナリタタイシンの前に立ちはだかる最大の敵となる。・・・もっとも、ナリタタイシンとビワハヤヒデの地位は、前年とは大きく違ったものとなっていた。ナリタタイシンが惨敗した菊花賞を制したビワハヤヒデは、その後も有馬記念でトウカイテイオーと名勝負を繰り広げ、始動戦の京都記念(Gll)も圧勝している。ナリタタイシンが肺出血、菊花賞での惨敗によって地獄を見ている間に、ビワハヤヒデは着実に最強馬への道を歩んでいた。

 この年の天皇賞・春は、京都競馬場の改修工事のため阪神競馬場で行われたが、阪神の芝コースは、前日の雨によって水を含み、柔らかく力のいる馬場となっていた。馬場発表も「やや重」で、切れ味勝負のナリタタイシンには不利な条件だったが、それを割り引いても、単勝130円と、650円というオッズが、前年のクラシック戦線で覇を競ったライバル同士の現状の差を顕著に表していた。

『最終決戦』

 阪神での天皇賞・春・・・14年ぶりの、例年とは違ったレースをスローペースで引っ張ったのはルーブルアクトだった。ビワハヤヒデは、そんなルーブルアクトのすぐ後ろにつけて、好位から厳しくマークする。前年秋以降のビワハヤヒデは、一貫してこの戦法を採ってきた。

 それに対し、ナリタタイシンも、後方から2番手につけた。武騎手は、競走馬としての完成期を迎えたビワハヤヒデを倒すためには、自分自身の競馬を極限まで引き出すことしかないことを知っていた。

 ビワハヤヒデは、スローペースに我慢しきれず、かかる気配を見せていた。そのため鞍上の岡部幸雄騎手は、手綱を抑えるのに苦労したという。彼は、レース前に

「怖いのは、ライスとユタカかな」

と語っていた。そのうち「ライス」ことライスシャワーが回避した今、敵は「ユタカ」こと武騎手の騎乗するナリタタイシンのみ。ナリタタイシンの末脚を封じ込めるためには、仕掛けをできる限り遅らせて、余力を残したまま直線を迎えることだった。渋った馬場にナリタタイシンの切れ味が減殺されることも、岡部騎手の作戦に余裕と落ち着きを持たせていた。

 一方の武騎手は、岡部騎手の意図を半ば以上察しつつも、やはり最後方から動かなかった。スローペースですら味方につけ、やや重の馬場をも切り裂く究極の末脚を引き出すことこそが、戦いの前から決まっていた武騎手の決意だった。

『遠ざかる背中』

 そして、第3コーナーあたりから、ナリタタイシンは動いた。ペースが速くなり、馬群のスピードも増していく中をそれ以上のスピードで外を衝いて上がっていく姿は、ファンに彼がかつて「平成新三強」と呼ばれていたという事実を思い出させ、そして彼の復活を感じさせるものだった。

 ビワハヤヒデは、第4コーナーでルーブルアクトをとらえ、そのまま先頭に立った。あっという間に馬群を引き離していく。そんなビワハヤヒデの後方に、馬群を突き抜けて迫り来るナリタタイシンの影。名勝負の再現の予感に、スタンドのボルテージは一気に高まっていった。

 だが、岡部騎手は、後方の気配を感じながらも、冷静さを失っていなかった。彼は、この時のためにビワハヤヒデの末脚を温存していたからである。

 一時は一気に縮まるかに見えたビワハヤヒデとナリタタイシンとの間隔だったが、岡部騎手がゴーサインを送ってからは、その差は縮まらなくなった。武騎手の鞭もむなしく、ビワハヤヒデには並びかけることすらできない。ビワハヤヒデとの距離は、ナリタタイシンにとっては、天皇賞・春の栄冠だけでなく、かつて三強として並び称されたライバルとの開きゆく距離を、そのまま示すものだった。

『祭りのあと』

 ナリタタイシンは、ビワハヤヒデの前に敗れ去った。彼の最大の武器である瞬発力の片鱗は見せたものの、彼がかつて皐月賞で見せた閃光のような鬼脚は、ついに甦らなかったのである。いや、それともその鬼脚すらも、完成したビワハヤヒデの前には通用しなかったというべきか・・・。ビワハヤヒデ以外の馬たちには格の違いを見せつけたが、ビワハヤヒデからはゆうゆうと1馬身4分の1の差をつけられて、逆に格の違いを見せつけられる結果となってしまった。

「ビワハヤヒデとナリタタイシンの勝負づけは終わった・・・」

 ファンは、そうささやきあった。天皇賞・春のレース内容からは、ビワハヤヒデとナリタタイシンとの差は、着差以上に大きなものと思われた。ナリタタイシンも力は出し切っただけに、それでもビワハヤヒデを脅かすことすらできずに敗れたという事実は、真摯に受け止めないわけにはいかなかった。

 ナリタタイシンがそんな評価を覆すためには、直接対決による逆転しかなかった。ナリタタイシン陣営は、王者たるビワハヤヒデに対し、宝塚記念(Gl)、そして秋の雪辱を誓った。・・・だが、ナリタタイシンがその後、ビワハヤヒデと再び会いまみえることはなかった。そして、その後のナリタタイシンを待っていたのは、さらなる苦難の道のりだった。

『苦悩の時』

 ナリタタイシンは、天皇賞・春の後、宝塚記念を目標に調整されていた。宝塚記念では、ビワハヤヒデはもちろんのこと、もう1頭の宿敵であるウイニングチケット、進境著しいネーハイシーザーといった強豪も参戦してくる予定となっていた。

 しかし、宝塚記念を目指しての調教で、ナリタタイシンの骨折が明らかになった。幸いその症状は軽いもので、目標を高松宮杯(Gll)に切り替えて復帰を目指す予定だったが、今度は屈腱炎を発症してしまった。屈腱炎といえば、言わずと知れた競走馬の競走能力に致命的な打撃を与える不治の病である。多くの名馬たちの競走生命を終わらせた業病により、ナリタタイシンは長期療養を余儀なくされた。

 ナリタタイシンが戦列を離れている間も、競馬界は激しく動いていった。ナリタタイシンが目指した宝塚記念はビワハヤヒデの圧勝に終わり、競馬界は「ビワハヤヒデ時代」の様相を深めていった。だが、そのビワハヤヒデ、そしてウイニングチケットとも、その年の天皇賞・秋(Gl)のレース中に屈腱炎を発症し、ターフを去っていった。その後の競馬界をリードしたのは、ビワハヤヒデの1歳下の弟で、この年のクラシック三冠を達成したナリタブライアンだった。

 だが、時代がめぐり、ライバルたちが次々と去りゆく中で、ナリタタイシンはあくまでも現役にこだわり続けた。それは、「平成新三強」最後の生き残りとしての意地であり、誇りだったのかもしれない。

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