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ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

『見出されて』

 突然の誕生で牧場の人々をびっくりさせたナリタタイシンだったが、6月生まれと同期の中でもかなりの遅生まれだったことに加え、馬体がかなり小柄で見栄えも良くなかったため、川上牧場の人々は、

「こんなに小さくて、競走馬になれるのかな」

という最も基本的な部分でナリタタイシンの将来を心配しなければならなかった。

 川上氏がナリタタイシンの評価を見直すきっかけになったのは、大久保正陽師の来訪だった。自分の厩舎に入れる子馬を探すために川上悦夫牧場にやってきた大久保師は、ナリタタイシンの牝系は大久保師の父親である大久保亀治調教師とゆかりがあったことを知って、この馬に興味を示した。そして、実際に馬を見た後、数いる同期の馬たちの中から

「この馬がいい」

とナリタタイシンを厩舎に入れることを望んだのである。

 大久保師といえば、古くはエリモジョージで天皇賞を勝ち、1992年にはメジロパーマーでグランプリ春秋連覇を達成している。後にはナリタブライアンで三冠を達成した調教師がナリタタイシンに真っ先に目をつけたというのは、川上氏らにとっては大きな驚きだった。おかげで

「競走馬になれるのかな」

という心配はどこへやら、むしろほのかな期待さえ抱くようになった。

『旅立ち』

 すると、その後のナリタタイシンは、大久保師が目をつけたとおり、2歳秋ころから動きが目に見えてよくなり始めた。各地の牧場で生まれたリヴリア産駒たちは「ゴロンとした子が多かった」というが、体型的にはむしろ対極にある細身の馬体のナリタタイシンは、その動きも馬体にふさわしく、切れのいいものだった。3歳になったナリタタイシンは、早田牧場の育成施設に預けられることになったが、その時川上氏は、

「リヴリアの代表産駒だよ」

と言ってナリタタイシンを引き渡したという。

 ちなみに、ナリタタイシンと同じ年に生まれた早田牧場新冠支場の生産馬には、ビワハヤヒデ、マーベラスクラウンという後のGl馬がおり、特にビワハヤヒデは、後に1993年クラシック戦線でナリタタイシンとライバルとして直接しのぎを削りあうことになる。つまり、彼らは同じ育成施設でトレーニングを積んでいたことになる。もっとも、育成牧場の人々の評価をみてみると、彼らの世代の中でナンバー1の評価だったのはエルジェネシスというエルグランセニョール産駒の持ち込み馬であり、ナンバー2の評価だったのは、同じリヴリア産駒ではあったが、牝馬のビワミサキだったという。競走馬のデビュー前の評価というのは、まったくもってあてにならないものである。

『奔放すぎて』

 ナリタタイシンは、やがて既定路線通りに大久保厩舎に入厩したが、大久保師にはひとつの大きな誤算が生じていた。それは、ナリタタイシンのあまりに小さな馬体である。最初のうちは、馬体が小さいのは遅生まれのためと思っていた大久保師だったが、時間が経っても馬体の成長は同世代の馬に追いつかず、むしろ他の馬たちが順調に成長していく分だけナリタタイシンの小ささが目立つ始末だった。あまりに小さいので、牝馬と間違えられることもあったという。

 もっとも、ナリタタイシンの気性は、馬体に似合わずかなり激しい方で、調教中に突然立ち上がったり、乗っている人間を振り落とそうとしたり、ということが少なくなかった。また、性格的にはかなりマイペースで、調教のために馬場に連れ出そうとしても、馬が勝手に厩舎へ帰ろうとしたり、また朝の調教と午後の引き運動の間に、人間の目をまったく気にすることなく昼寝をしたり・・・ということが何度もあった。

 そんなナリタタイシンだったが、その小柄さゆえに仕上がりは早かった。ナリタタイシンは、横山典弘騎手を鞍上に迎えて、札幌芝1000mの新馬戦でデビューした。

 デビュー戦で1番人気に支持されたナリタタイシンだったが、初めての実戦で競馬場の雰囲気に興奮したナリタタイシンは、気性的な脆さを見せてしまった。行きたがって向こう正面では先頭に並んだあげく、最後にはばてて失速し、6着に敗れたのである。血統的にも不向きな時期、距離だったということもあろうが、それより何より、ナリタタイシン自身がまだ競馬というものを分かってはいなかった。

 その後、球節の不安が出たために3ヶ月のレース間隔をあけたナリタタイシンは、今度は福島へと乗り込んだ。大久保厩舎の本拠地は関西だが、晩秋の3場開催の季節には、例年福島に積極的に遠征している。福島遠征の際には、大久保厩舎の主戦騎手は清水英次騎手が務めることが多く、ナリタタイシンの鞍上にも彼が迎えられることになった。

『皐月賞馬を育てた男』

 清水騎手は、1996年に騎手を引退するまでに通算550勝をあげ、大きなところではトウメイの最後の主戦騎手として天皇賞、有馬記念を制し、またその子テンメイに騎乗して天皇賞母子制覇を達成したことで知られている。晩年は必ずしも乗り鞍に恵まれず、派手な活躍こそできなかったものの、若い馬に競馬を教えることにかけては定評があり、大久保厩舎でもその腕を買って、特に若駒の騎乗依頼をすることが多かった。歴史からは忘れられがちだが、大久保厩舎の1年後輩にあたる三冠馬ナリタブライアンも3歳時に1戦だけ福島に遠征したが、その時は清水騎手が騎乗している。

 清水騎手がナリタタイシンの騎乗で心がけたのは、この馬の瞬発力を生かす競馬、つまり後方で控える競馬を教えることだった。ナリタタイシンは馬体が小さい分、一瞬の切れ味には物凄いものがあったが、その反面でその切れ味を長い間維持することもできないという特徴があった。この手の馬は、中途半端に先行させると末脚をなし崩し的に使い果たしてしまい、持ち味を発揮できない。この時期の清水騎手は、強引に手綱を引っ張って馬と喧嘩をしても、道中ではとにかく後方に控え、末脚を直線まで温存する競馬を馬に覚えさせようと努力していたが、相手が人間ならぬ馬のこと、なかなか人間の思いどおりに走ってくれない。

 道中最後方からの追い込みを身につけるまでのナリタタイシンの戦績は、安定していない。未勝利戦を豪快な末脚で差し切ったものの、その後別の騎手できんもくせい特別(500万下特別)に進むと、またも無理に先行して最後の脚をなくし、6着に沈む。その後、鞍上が清水騎手に戻って福島3歳S(OP)で2着、千両賞(500万下特別)でも2着・・・。この時点までのナリタタイシンの通算成績は5戦1勝で、その戦績もほとんどがローカル開催で、あくまでも数いる500万下条件馬の中の1頭にすぎない。

 しかも、ナリタタイシンの場合は、結果がふるわないだけではなく、人気になるわけでもなかった。小柄な馬体が嫌われてか、それまで一度も1番人気に支持されたことはなく、福島3歳Sでは7番人気、千両賞でも6番人気にとどまっている。これらのレースでいずれも2着に入ったのは、人気を裏切る不覚ではなく、むしろ低い評価を覆す健闘で、清水騎手による競馬は、着実にナリタタイシンの持ち味を引き出しつつあった。末脚勝負に持ち込めば、確実に結果を出してくれるナリタタイシンの成長に、大久保師らはひそかに期待をふくらませていった。

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