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ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

『1番人気の黒い影』

 弥生賞でナリタタイシンと武騎手という新コンビの前に立ちはだかったのは、前年暮れのホープフルSでクラシックの最有力候補の地位まで駆け上がった3連勝中のウイニングチケットと、悲願のダービー制覇をこの馬に賭ける柴田政人騎手だった。

 この日のナリタタイシンの単勝オッズは350円で、330円のウイニングチケットとは僅差の2番人気に支持された。ホープフルS以来2ヶ月ぶりの実戦となるウイニングチケットに対し、年末から月1走のペースで使われてきたという有利さがあってのこの人気である。・・・それは当時のナリタタイシンへの期待の度合い、そして限界を物語るものでもあった。

 1番人気と僅差の2番人気ともなれば、武騎手の騎乗が慎重なものとなっても不思議はない。だが、武騎手は思い切った位置・・・縦長となった11頭の馬群の後方から2番目という場所につけた。清水騎手によって追い込みの競馬を教え込まれたナリタタイシンを託された武騎手が、ベテラン騎手のかなわなかった思いを現実のものにしようとしているかのような競馬だった。

 しかし、思い切った競馬をしたはずの武騎手にとって、この日のレースには予想外だった点があった。それは、彼らよりもさらに慎重な競馬が求められるはずの馬・・・1番人気のウイニングチケットが、彼ら以上に思い切った競馬・・・最後方からの競馬を選んだことである。

『中山の嵐』

 ハイペースとなったレースの中で、後ろから2番手の位置につけながらも最後方にいる最大の敵の動向を気にしていたナリタタイシンは、やがて第3コーナー付近で、ウイニングチケットが上がってきたことに気がついた。前崩れは必死の展開で、前半は十分に脚をためることに専念したライバルの満を持した動きに、武騎手は焦った。

「あれじゃあ、こっちも仕掛けざるを得ない」

 後に武騎手はこう悔しがった。だが、それは一瞬の判断が勝敗を分けるレース中の選択としては、やむを得ないものだっただろう。もともと瞬発力には定評のあるウイニングチケットが相手である。一度置いていかれたら、二度と追いつけない・・・ナリタタイシンには初騎乗となる武騎手がそう思ったとしても、そのことを責めることはできない。・・・たとえ、それが柴田騎手の術中にはまるきっかけになったとしても。

 ナリタタイシンがウイニングチケットとほぼ同時に上がっていったことで、レースは彼ら2頭の追い比べとなった。だが、ほぼ同時に追い出したにも関わらず、彼らの間には、勢いの差がはっきりと見てとれた。ナリタタイシンも、他の馬をかわしてはいく。だが、ウイニングチケットはさらにその先を行っている。鋭い末脚をもっている反面で、その脚を長い間使うことはできないナリタタイシンにとって、残り800m地点からのウイニングチケットとの末脚比べは分が悪かった。懸命に走るナリタタイシンだが、ウイニングチケットにはどうしても食らいつけないまま、その差が拡がっていく。

『敗れざる魂』

 ナリタタイシンは、ウイニングチケットに2馬身差をつけられて敗れた。ステージチャンプとの競り合いをクビ差制して2着は確保したものの、勝ち馬との差は決定的なものに思われた。ウイニングチケットの勝ちタイムである2分0秒1は、従来の弥生賞レコードを1秒4上回る驚異のタイムであるばかりか、当時の皐月賞レコードすら1秒0上回るものだった。

 弥生賞に対する一般の評価は、「ウイニングチケットが強さを見せつけた」というものばかりだった。

「今日は85点の状態」(伊藤雄二師)
「追ってからの反応、切れが今ひとつ」(柴田騎手)

 関係者たちはそう語ったものの、それは謙遜、あるいはウイニングチケットの次元が他の馬と違うゆえの高いハードルとしかとられなかった。この世代の有力馬には、まだウイニングチケットとは未対決のビワハヤヒデがいたものの、こと弥生賞組に話を限るなら

「ウイニングチケットとの勝負づけはついた」

という声が大勢を占めていた。

 しかし、武騎手の見方は一般とは異なるものだった。彼は、ウイニングチケットが上がってきた時に、ナリタタイシンも一緒に動いてしまったことで、直線での末脚を鈍らせてしまったことが敗因とみていた。では、どうすれば勝てたのだろうか?・・・武騎手は、考えた。そして、皐月賞でのナリタタイシンのレースについて、あるイメージを膨らませていった。

「今回は完敗だけど、展開が変わってくる皐月賞では、逆転も可能だと思います」

 レース後にそう語った武騎手の言葉は、決して負け惜しみではなかった。

『王道への潜入』

 弥生賞の後、他のトライアル戦線では、スプリングS(Gll)は人気薄のマルチマックスが勝ち、若葉S(OP)はウイニングチケットと並ぶクラシックの有力候補とされていたビワハヤヒデが順当に勝利を収めた。関西馬たちが関東の皐月賞トライアルを席巻する中、阪神の毎日杯(Glll)でも新馬戦を勝ったばかりのシクレノンシェリフが優勝してクラシックロードに乗った。・・・勝つ馬、勝つ馬のすべてが関西馬というこの状況は、「関西の時代」の到来をはっきりと物語るものだった。

 こうして次々と名乗りをあげるライバルたちの中で、ナリタタイシンの地位は磐石とは言い難かった。弥生賞を今になって振り返れば、後世に名勝負として語り継がれる1993年牡馬クラシック戦線の幕開けのレースと言うことができる。しかし、未来を知らない当時のファンにとって、弥生賞でウイニングチケットに完敗したナリタタイシンは、すでにウイニングチケットとの器の差、そして能力の限界を露呈したように見えていた。

 当時のスポーツ紙をにぎわせたのは、「BW決戦」「岡部対柴政」という活字だった。岡部幸雄騎手を主戦騎手に迎えたビワハヤヒデと、柴田騎手と同じ道を歩むウイニングチケット。それがこの年の皐月賞の代表的な構図であり、ナリタタイシンは彼らからは大きく離された地味な存在に過ぎなかった。

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