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ダイタクヘリオス列伝~女は華、男は嵐~

1987年4月10日生。2008年12月12日死亡。牡。黒鹿毛。清水牧場(平取)産。
父ビゼンニシキ、母ネヴァーイチバン(母父ネヴァービート)。梅田康雄厩舎(栗東)。
通算成績は、35戦10勝(旧3-6歳時)。主な勝ち鞍は、マイルCS(Gl)連覇、マイラーズC(Gll)連覇、毎日王冠(Gll)、高松宮杯(Gll)、クリスタルC(Glll)、葵S(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『嵐』

 サラブレッドや競馬を語る場合、よく「あの馬は血統がいいから走る」「あの馬は血統が悪いから勝てない」という言い方がされることがある。現存するサラブレッドの父系をたどるとすべて「三大始祖」のいずれかにたどりつく閉鎖的な血しか持たないサラブレッドの世界は、それゆえに血統をこの上なく重視し、その価値観を究極まで推し進めたところで発展してきた。

 本来ならば、サラブレッド自体が限られた血統しか持たない以上、「血統がいい」「血統が悪い」といっても、その違いはそう大きなものではないはずである。「良血」といわれる馬と「雑草」といわれる馬の血統表を見比べてみると、2~3代も遡れば同じ馬に行き着く・・・ということは、珍しいことではない。そうであるにもかかわらず、実際には「良血」といわれる馬は高値がついて大切にされる反面、「雑草」といわれる馬は、捨て値で売られてばかにされ、やがてその血統自体が滅び去っていくことが多いのは、非常に悲しいことである。

 だが、時にそうした運命に正面から戦いを挑む「雑草」が現れるのも競馬の面白さと魅力である。1991年、92年のマイルCS(Gl)を連覇した名マイラー・ダイタクヘリオスは、そんな競馬の面白さ、魅力を体現した1頭に数えることができる。

 ダイタクヘリオスという馬を語る場合、「雑草」とか「マイルCS連覇」とか「名マイラー」といった一般的な言葉を並べただけでは、そのすべてを表すことはできない。ダイタクヘリオスの特色を並べてみると、他の馬たちではとても真似できないヘンなものばかりである。1番人気で重賞を勝ったことがない。それどころか彼が古馬になってから出走した重賞では、彼以外の馬も含めて、一度も1番人気の馬が勝ったことがない。レース直前の併せ馬では、Gl2勝馬でありながら、平気で未勝利馬に大差をつけられる。パドックで暴れれば暴れるほどレースでは強く、静かにしているときは全然ダメ。負ける時は、直線で笑いながら沈んでいく・・・。ひとつだけでも十分面白いのに、これだけ重なればもはや奇跡である。そんな面白い馬が、いざレースになると素晴らしい先行力を見せ、さらに第4コーナーから凄まじいダッシュをかけて後続を突き放すとそのまま粘り切ってしまうのだから、そんな競馬を見せられるファンがしびれないはずがない。嵐のような激しさでターフを荒らし回ったダイタクヘリオスは、伝説の時代ならいざ知らず、日本の現代競馬においては、ほぼ間違いなく有数の個性派ということができるだろう。

 こうして圧倒的な個性をひっさげてマイル路線に乗り込む彼の前に立ちふさがったのが、華のような華麗さでマイル戦線に輝いた同年齢の名マイラー・ダイイルビーだった。ダイイチルビーは名牝マイリーの血を引く「華麗なる一族」の出身で、さらに母がハギノトップレディ、父がトウショウボーイという当時の日本ではこれ以上望みようがないという内国産の粋を集めた血統を持っていた。生まれながらに人々の注目という名の重圧を背負った彼女は、直線に入ってからの馬群を切り裂くような鋭い切れ味を持ち味としており、ダイタクヘリオスとはあらゆる意味で対照的な存在だった。この2頭の幾度にもわたる対決の歴史は「名勝負数え歌」としてファンの注目を集め、ある競馬漫画で「身分を越えた恋」として取り上げられたことをきっかけに、一気に人気者となっていったのである。

 今回は、マイル戦線を舞台に幾度となく名勝負を繰り広げ、多くのファンの心を、そして魂を虜にしたダイタクヘリオスの軌跡を語ってみたい。

『血の系譜』

 ダイタクヘリオスは、1987年4月10日、平取の清水牧場で産声を上げた。父がスプリングS(Gll)、NHK杯(Gll)などを勝ったビゼンニシキ、母が未出走のネヴァーイチバンという血統は、決して目立つものではない。後にダイタクヘリオスの血統は、ライバルのダイイチルビーと対比してたびたび「雑草」といわれるようになったが、それもあながち理由のないことではない。

 ただ、当時の日本競馬においては、ダイイチルビーの血統と比較すると、たいていの内国産血統が「雑草」になってしまうことも事実である。また、ダイタクヘリオスの牝系を見ると、華やかさにおいてはダイイチルビーの一族に遠く及ばないとはいえ、長い歴史と堅実な成績という意味では決して恥じるべきものでなかったことについては、注意しておく必要がある。

 ダイタクヘリオスの牝系は、1952年に競走馬として輸入された外国産馬スタイルパッチに遡る。スタイルパッチは短距離ハンデをはじめ競走馬として41戦9勝の戦績を残し、繁殖牝馬としても期待されていた。

 繁殖牝馬としてのスタイルパッチは明らかに「男腹」で、死産を除く11頭の産駒のうち、牝馬はわずかに3頭だけだった。ダイタクヘリオスは、この3姉妹の「長女」にあたるミスナンバイチバンの孫にあたる。ミスナンバイチバンは26戦4勝の戦績を残し、そこそこの期待とともに繁殖入りを果たした。ちなみにその2頭の妹を見ても、シギサンは4勝、リンエイは南関東競馬とはいえ10勝を挙げている。牡馬も8頭のうち6頭が勝ち星を挙げており、スタイルパッチの繁殖成績は、目立たぬながらもなかなかのものだったと言えよう。

 だが、スタイルパッチの血の真価が発揮されたのは、子の代ではなく孫、ひ孫の代に入ってからだった。まず1975年、ミスナンバイチバンの長女カブラヤの子であるカブラヤオーが、歴史上類を見ない逃げで皐月賞、日本ダービーの二冠を奪取した。カブラヤオーの名前は、通算13戦11勝の二冠馬という記録以上に、ついていった馬が次々と故障したという悪魔的な逃げの記憶が語り継がれている。

 カブラヤオーの鮮烈な登場によって再び脚光を浴びたスタイルパッチ系からは、その後79年にエリザベス女王杯を勝ったカブラヤオーの妹ミスカブラヤ、そして82年に7戦6勝でスプリングSに臨み、「82年クラシックの主役」と謳われながらもこのレースで故障し、そのままターフを去った悲運の大器サルノキング・・・と次々強豪が輩出した。ちなみに、このサルノキングが敗れたスプリングSは、それまで逃げで勝ってきたサルノキングがなぜか突然最後方待機策をとったこと、そしてそのスプリングSを勝ったのが「華麗なる一族」に属するやはり逃げ馬のハギノカムイオーだったこと、さらにハギノカムイオーの馬主がレース直前にサルノキングの権利を半分買い取っていたことから、一部では

「血統的に、勝てば高値で売れるハギノカムイオーを勝たせるための陰謀ではないか」

という説まで流れた。それはさておき、このレースの後皐月賞の本命としてクラシックへと進んだハギノカムイオーに対し、このレースを最後に故障によってターフを去ったサルノキングは、種牡馬入りこそしたものの、実績以前に最低限の人気すら集められず、最後は用途変更によって行方不明になるという運命をたどった。あまりにも対照的な明暗に分かれた2頭の物語は、ダイタクヘリオスの一族とダイイチルビーの一族の、最も古い因縁である。

『脚光の狭間で』

 閑話休題。こうして次々と活躍馬が出たことによって、スタイルパッチ系の牝馬への注目度は当然高まるはずだった。・・・だが、そうした一族の栄光への余光は、ダイタクヘリオスの母であるネヴァーイチバンのところまでは回ってこなかった。

 スタイルパッチ系自体ミスナンバイチバンをはじめとして多産の系統だったが、これは希少価値の面からは見劣りするものだった。また、スタイルパッチ系の活躍馬であるサルノキングはいとこ、カブラヤオー、ミスカブラヤ兄妹は甥姪にあたり、同族とはいっても、ネヴァーイチバンからしてみれば、その血脈は、微妙にずれたところにあった。

 それらに加えて、ネヴァーイチバン自身も、生まれつき両前脚が曲がっている奇形があった。彼女が未出走に終わったのもその欠陥ゆえだったし、彼女の初期の産駒は、母の脚の形まで受け継いでしまい、ろくに走ることができなかったのである。

 ネヴァーイチバンの初期の産駒は、3番子までがすべて未出走か未勝利に終わり、4番子のエルギーイチバンが初めて勝ち星を挙げたと思ったら、それは北関東競馬での結果だった。繁殖牝馬としてこのような結果が出つつあった情勢の中では、いくら同族が活躍しても、彼女まで脚光が及ぶことはない。ネヴァーイチバンは、一族の活躍とはまったく無縁のままに、ある牧場でひっそりと繁殖生活を送っていた。

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