TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

『灼熱の府中』

 武騎手とナリタタイシンの作戦は、皐月賞とまったく同じものだった。・・・だが、その馬券を買っている者ですら、その視線で最後方にいる彼らだけを追いかけることは難しかった。前に、前にと視線が集まるのは、もはや競馬ファンの習性ともいっていい。

 そして、前に集まる視線の一番先・・・馬群の先頭にいたのは、16番人気のアンバーライオンだった。単勝オッズは7000円を超えて、人気とはまったく無縁だったアンバーライオンだが、その彼が作り出すペースは、日本ダービーというレースに大きな影響を与えていた。

 最初の1ハロンは12秒7と緩やかに流れたものの、次の1ハロンで11秒3とペースを上げたアンバーライオンは、その後1ハロンあたり11秒9から12秒2という厳しく正確なラップを刻んでいった。最初の1000m通過が1分ちょうど、1600m通過が1分36秒4というラップはいずれも、3週間前に2000mコースで行われたNHK杯のそれよりも速い。この年の秋に同じ東京2400mコースで行われたジャパンCでメジロパーマーが刻んだラップが、それぞれ1分ちょうど、1分36秒1だったことからも、その厳しさはうかがえるだろう。アンバーライオンのペースは、未完成の4歳馬でありながら、世界の強豪が集まるレースで本格化した逃げ馬が刻んだペースとほぼ同じだったのである。

 そんな流れの中で最初に動いたのは、ウイニングチケットだった。ウイニングチケットが動いたことに触発されたかのように、ビワハヤヒデも動く。第4コーナーを前にして、三強のうち二強までが進出を開始すると、他の馬たちも動かざるを得ない。スタンドからは大歓声が沸きあがり、ターフからたちのぼる灼熱は、府中の杜を覆いつくした・・・だが、ナリタタイシンはまだ後方のままである。第4コーナー、14番手。それが、直線の末脚に賭けるナリタタイシンと武騎手の位置だった。

『三強の刻』

 最後方からいっこうに動く気配を見せないナリタタイシンをよそに、直線に入って馬群からひとあし先に抜け出したのは、大方の予想を裏切るウイニングチケットだった。戦前の予測では、先に抜け出すのはビワハヤヒデで、ウイニングチケットはそれを追いかける展開になると考えられていただけに、これにはさすがに皆驚いた。

「皐月賞では早めに動いて失敗したのに、また同じ過ちを繰り返すのか」
「いや、府中の長い直線で早めに先頭に立つなんて、皐月賞どころじゃない」

 ・・・だが、柴田騎手の気迫とムチに押されたウイニングチケットの脚は、直線の半ばをすぎてもまったく鈍る気配を見せない。それに対し、岡部騎手が操るビワハヤヒデもまた、持ち前のしぶとさでウイニングチケットに食い下がる。皐月賞前から「二強」といわれた彼らによる激しい叩き合いに、スタンドを埋め尽くした大観衆は興奮の渦の中へと引き込まれていった。

 すると、その死闘を見守る大観衆の視界に、もう1頭が否応なく飛び込んできた。死闘を繰り広げるウイニングチケットとビワハヤヒデの後方から、外を衝いて上がってくる馬がいた。・・・皐月賞馬ナリタタイシンである。後方一気の強襲でクラシックの一冠目を奪取したナリタタイシンは、この日も府中の広く長い直線と、馬に秘められた瞬発力に賭けていた。皐月賞とまったく同じように、否、皐月賞以上に後方待機策を純化させ、第4コーナーでなお14番手にいた彼らは、いよいよ自らの持てる力を解放したのである。

 早めに立った先頭から、必死の逃げ込みを図るウイニングチケット、一歩も退かず懸命に食い下がるビワハヤヒデ、そして彼らをめがけて外から飛んでくるナリタタイシン。第60回日本ダービーは、評判どおりに彼ら「平成新三強」による揃い踏みとなった。

『立ちはだかる壁』

 だが、ナリタタイシンが前の2頭に迫りつつあるころ、武騎手はナリタタイシンと前の2頭の手応えにわずかな、しかし決定的な差を感じ取っていた。

「届かない・・・?」

 武騎手は、自分の馬の手応えが、すぐそこに迫ったビワハヤヒデ、そしてウイニングチケットに及ばないという認めたくない現実を目の当たりにすることとなった。・・・そして、この時の彼の直感は、ゴールが近づくにつれてナリタタイシンと前の2頭との差が縮まらなくなっていく事実によって裏付けられた。

 武騎手の誤算は、道中でアンバーライオンが形成したペースが、予想以上に速かったということだった。皐月賞では展開のスローペースを生かし、持ち前の瞬発力を「スローペースは先行馬有利」というセオリーを破壊する鋭い鬼脚へと昇華させたナリタタイシンにとって、その反対・・・セオリーでいけば追い込み馬有利となるハイペースは、追走に脚を使わせられる分、末脚の破壊力を鈍らせる要素となっていた。それでも相手が並みの馬ならば十分差し切れたのだろうが、この日の相手となるウイニングチケットとビワハヤヒデは、そのわずかな誤算を致命傷に変える高い水準の実力をもって、ナリタタイシンの前に立ちふさがっていた。

『死闘の果て』

 結局、ナリタタイシンはウイニングチケット、ビワハヤヒデをとらえることなく、3着でゴールした。二冠制覇は、ならなかった。

 レースの後、報道陣に敗戦の感想を求められた武騎手は、

「一瞬、突き抜けるかなあ、と思ったんですがね。僕の馬もよく走っています。今年はレベルが高い。前の2頭が強かった、ということでしょう」

と素直に敗北を認めた。ちなみに、2着のビワハヤヒデに騎乗していた岡部騎手も、

「ひとことで言って、力負け。力は出し切れたと思う」

とコメントしている。誰もの意表をついた、早め先頭で押し切るという柴田騎手の神がかり的な騎乗で決着した第60回日本ダービーを「ウイニングチケットと柴政のためのダービー」と評する人は多い。ダービー制覇を悲願とした柴田騎手だが、悲願をかなえたこのダービーが、結果的には騎手として迎えた最後のダービーとなったことも、そんな声をいっそう大きなものとしている。

 とはいえ、二冠の夢破れたナリタタイシンの競馬も、皐月賞馬の栄光に恥じないものだった。着順こそ「三強の3番目」だったが、4着のガレオンには2馬身先んじて力の差を示した。また、最後は前の2頭に届かなかったものの、覚悟を決めて最後方待機策から繰り出した鋭い末脚は、追い込み馬のロマンを存分に見せつけるものだった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
TOPへ