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ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

『後ろから来るもの』

 ところが、ナリタタイシンが本当の力を見せつけたのは、むしろそれからだった。他の馬と接触して外へとはじき出されたナリタタイシンは、それをきっかけに闘志を激しく燃え上がらせ、凄まじい末脚を繰り出したのである。

 馬群の前では、ビワハヤヒデがシクレノンシェリフ、ガレオンといった馬たちを凌いで栄光のゴールに迫っていた。ウイニングチケットも追い上げている。・・・だが、弥生賞で見せた豪快な切れ味が、この日は影を潜めていた。

 柴田騎手は、道中の段階で

「馬のテンションが上がりすぎている・・・」

と感じ取り、懸命に修正を図った。しかし、その思いはウイニングチケットには伝わらず、柴田騎手の意図は果たされなかった。慣れない中団からの競馬が凶と出たのか、それとも馬の調子自体が完全ではなかったのか。おそらくはその両方だったのだろうが、ウイニングチケットの脚色は、ビワハヤヒデに明らかに及ばないものだった。「二強」の一角の脱落により、皐月賞がビワハヤヒデの勝利に終わるかに見えた、その時だった。

 馬群の外から先頭に迫る、ただ1騎。それが、武騎手に導かれたナリタタイシンだった。ウイニングチケット、シクレノンシェリフ、そしてガレオン・・・迫りくるライバルを次々と退けて先頭を守ってきたビワハヤヒデとの間隔が、みるみる縮まっていく。

『時間よ、止まれ』

 誰もが驚く最後方から、ほとんど直線だけで追い込んできたナリタタイシンの強襲に、場内は騒然となった。この日の前半の展開は、人気薄のアンバーライオンがレースを引っ張ったこともあって、むしろスローペースで流れていた。スローペースの展開では、先行馬がばてず、前残りになることが多い。この日有利に競馬を進めた馬たちを見ても、ビワハヤヒデはもちろんだが、ガレオン、シクレノンシェリフとも比較的前で競馬をしていた。こうした展開で割を食うのは、後方からの末脚に賭ける馬たちのはずである。ところが、不利なはずのナリタタイシンが繰り出す末脚は、まるで直線の時間が止まったかと見まがう切れ味だった。

 スローペース・・・それは、並みの追い込み馬にとってはその武器を殺す向かい風となる。しかし、もともと極限の、それゆえに限られた条件でこそ生きる瞬発力を持ったナリタタイシンにとっては、それこそが彼の切れ味を最大限に引き出す追い風だった。凧は、逆風の中でこそ空高く舞い上がる。この日のナリタタイシンも、スローペースという向かい風の中でこそ天高く舞い上がったのである。

 ゴール直前になって初めてナリタタイシンの気配を感じた岡部騎手は、予想をはるかに超える勢いに愕然とした。ビワハヤヒデ自身の手応えはまだ残っていたため、彼の頭には

「馬体を併せれば、まだ可能性はある・・・」

という考えもよぎったが、ビワハヤヒデのすぐ外にはガレオンがいた。ガレオンがいる限り、ビワハヤヒデはガレオンのさらに外からやって来るナリタタイシンと、馬体を併せることができない・・・。

 この日の皐月賞について、武騎手は、

「最後まで勝てるかどうかわからなかった」

と語っている。だが、実際には、岡部騎手がナリタタイシンの気配を感じた時に、ビワハヤヒデとの決着はついていたのかもしれない。ナリタタイシンは、ゴールの一歩手前でビワハヤヒデをとらえ、わずかにクビ差差し切った。まさに「鬼脚」というべき末脚を爆発させたナリタタイシンの勝ちタイムは、2分0秒2。これは、1984年にシンボリルドルフが岡部騎手とともに記録した2分1秒1を0秒9更新する、堂々の皐月賞レコードだった。

『歴史が呼ぶ声』

 ナリタタイシンは、ビワハヤヒデとウイニングチケットの「二強対決」と呼ばれた皐月賞を逆転で制し、第53代皐月賞馬に輝いた。思い切った最後方待機策でナリタタイシンの瞬発力を引き出した武騎手にとって、この日は春の牡馬クラシック初勝利となった。

 ナリタタイシンがこの日見せた凄まじい末脚は、皐月賞の歴史に残る「鬼脚」として、今なお語り継がれる伝説となっているが、その一方で、彼の勝利はいくつかのエピソードにも彩られている。ナリタタイシンの生産者である川上氏は、この日の中山競馬場に向かうために牧場を出る時、スタッフに

「タイシンの単勝を10万円買ってくるぞ」

と宣言した。・・・この日はタイシンリリイを譲ってくれた牧場の場長と一緒にレースを観戦して喜びを分け合った川上氏だが、いざ的中してみると、彼が実際に買っていた単勝はなぜか5万円だったという。

 また、生産者といえば、2着に敗れたビワハヤヒデの生産者である早田光一郎氏は、前に触れたとおり、ナリタタイシンの父リヴリアを日本に導入した中心人物でもあった。早田氏にしてみれば、自分の生産馬が、自分が導入した種牡馬の子に栄光をかっさらわれた形になる。日ごろから川上氏とは親しく、「普段なら写真撮影にも一緒に収まるはず」の早田氏も、この日の結果にはさすがに呆然としてしまい、気がつくと自分がいないまま写真撮影は終わってしまっていたという。

 何はともあれ、1993年牡馬クラシック三冠戦線は、ナリタタイシンの鬼脚によって切り拓かれた。皐月賞制覇にあと1歩のところまで迫りながら大魚をさらわれたビワハヤヒデ陣営は

「皐月賞は、切れ味と、人気の差。でも、ダービーの主役がビワハヤヒデだという思いに変わりはない」(浜田光正師)

と雪辱を誓い、5着入線(ガレオンの降着によって4着)と人気を裏切った形のウイニングチケット陣営も、

「なし崩しに脚を使ってしまったし、馬も興奮していた。でも、目標はあくまでもダービー」(伊藤雄二師)

と反攻を約束した。だが、皐月賞が終わった時点で、この年の「三冠馬」となる資格はナリタタイシンただ1頭に絞られたことも事実である。

「直線が広くて長い東京コースも、400mの距離延長も心配はない」

というナリタタイシン陣営の思いには、前年から模索し、磨き上げてきた後方一気の追い込みという脚質と、クラシックディスタンスでの実績豊富なリヴリアの血という確かな裏づけがある。彼らの胸に燃えるのは、二冠への野望だけだった。・・・後世に「平成新三強」として語られる彼らのクラシック、そして伝説は、ここに始まったのである。

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