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ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

『静かな退場』

 ナリタタイシンが復帰を果たしたのは、翌年の宝塚記念(Gl)でのことだった。だが、主戦騎手の武騎手は、同じ日に東京で行われたニュージーランドトロフィー4歳S(Gll)で1番人気に支持されたヤマニンパラダイスに騎乗するため東京へ行ってしまい、残されたナリタタイシンは、山田泰誠騎手による参戦となった。屈腱炎は競走能力にも悪影響をもたらすことが多く、屈腱炎明けの馬には、一流騎手になればなるほど乗りたがらないのが現実である。

 そして、ナリタタイシンはその宝塚記念で17頭だての16着に敗れた。見せ場を作ることさえまったくないままの惨状で、かつてターフを沸かせた煌くような末脚は、もう見る影もなかった。ナリタタイシンに先着できなかったのは競争中止のライスシャワーだけで、実質的にはしんがり負けだった。

 さらに、宝塚記念の後、ナリタタイシンは屈腱炎を再発させてしまった。彼の末脚は、脚部への負担なしには発揮し得ないものだったが、長きに渡る疲労の蓄積は、もはや彼が一線の競走馬としてレースを走ることさえも不可能なものとしていた。

 ナリタタイシンは、この1戦を最後に、現役を退くことになった。通算成績は15戦4勝、重賞も3勝だったが、閃光のように煌く末脚を武器にその数字をはるかに上回る存在感を残した彼は、静かにターフを去っていった。

『戦い終えて』

 競走生活を引退したナリタタイシンは、総額2億円のシンジケートが組まれて種牡馬入りすることになった。ナリタタイシンの父のリヴリアは、優れた種牡馬成績を残しながら2年前に早世していたため、ナリタタイシンはその後継種牡馬としての期待も集めるはずだった。

 ・・・しかし、実際の彼のシンジケートは、なかなか満口にならなかった。マーケットブリーダー中心のために見栄えがする「雄大な馬格」が人気種牡馬の条件となることが多い日本の馬産界では、ナリタタイシンの小柄な馬体が大幅な割引材料とみなされてしまったのである。ちなみに、その2年後に同馬主で4歳時に三冠と有馬記念を制したナリタブライアンが引退し、種牡馬入りする際のシンジケートには、応募が殺到したが、その時には馬主の

「人気がなかったタイシンに期待をかけてくれた方から、ブライアンの株を持ってもらいたい」

という意向によって、ナリタタイシンのシンジケート会員が優先的に株の割り当てを受けたという逸話が残っている。

 このような紆余曲折を経てようやく発足したナリタタイシンのシンジケートだったが、彼に対する期待の薄さを反映して、ナリタタイシン産駒の成績も思わしくなかった。種牡馬入り当初は毎年40~50頭前後の種付け頭数を確保できていたものの、その中からは活躍馬が現れず、種牡馬としての期待も下がっていった。

 期待の低下に比例して種付け頭数も減少していったナリタタイシンは、いくつかの種馬場を転々としながら種牡馬生活の続行を図ったものの、産駒が走らないままでは、人気が回復するメドも立たない。そして、2003年春、ついに種付け頭数がゼロになったことで、ナリタタイシンの種牡馬引退が決まり、その後は馬主の人脈をたどって門別のベーシカル・コーチング・スクールへと移動し、乗馬としての生活を送った。そんなナリタタイシンも、2020年4月14日、老衰によって大往生を遂げた。

 ナリタタイシン産駒の成績に目立ったものはなく、ナリタタイシンはもちろん、ナリタタイシンと同じ年に同じ川上悦夫牧場で生まれたマイヨジョンヌも含めたリヴリアの直系の血は、すでに途絶えた。競走馬の血は、諸行無常と言わざるを得ない。

『この世に競馬ある限り』

 このように、競走馬としての晩年は決して満足のいくものではなく、種牡馬としても失敗に終わってしまったナリタタイシンだが、その鮮烈な末脚はファンに強い印象を残している。ナリタタイシンとは、先行抜け出しというそつのない競馬が幅を利かせる近代競馬において、もう甦ることはないかに思われた「真の追い込み馬」だったということができよう。

 一般に「平成新三強」とは言われるものの、ナリタタイシンという馬を時代の中で見た場合、古馬になってから最強馬として一時代を築いたビワハヤヒデ、柴田政人騎手の悲願のダービー制覇の物語と常にセットで語られるウイニングチケットと比べ、一枚劣った存在として語られがちであることは否定できない。また、恵まれすぎたライバルたち、そして自身の極端すぎる脚質ゆえに、馬券の軸としての信頼感はなく、その生涯15戦の中で、1番人気に支持されたのはわずかに2度しかなかった。

 しかし、空前のハイレベルといわれた1993年牡馬クラシック戦線に、小さな身体に備わった直線一気の末脚ひとつを武器として殴り込みをかけ、ついには「平成新三強」の一角として主役の1頭に数えられるに至ったナリタタイシンは、記録以上に記憶に残る強豪だった。そんな彼が、現代競馬から忘れられかけていた「追い込みのロマン」を平成の世に甦らせたという功績は、十分に評価されなければならないだろう。18頭だての皐月賞で第4コーナー12番手、同じく18頭だての日本ダービーで第4コーナー14番手・・・。そんな位置から凄まじい破壊力の末脚、「鬼脚」を繰り出すことを存在意義とした彼の競馬は、私たちの魂を惹きつける何かを持っていた。

 追い込み馬は、自分で自分に有利な流れを作り出すことができず、他の馬が作り出す「展開」に常に左右される宿命を持つ。また、せっかく展開がはまったとしても、前を他の馬にふさがれる不利を受けて敗れ去ることも、まったく珍しいことではない。

 だが、それは私たち人間も同じことである。人間たちですら、自らの人生を生きていく際、自分の力で有利な環境を作り出せる者など、全体のひと握りにすぎない。自分になし得る最善の努力をし、また最大の成果を挙げたように思えても、時に利あらず敗れたり、自分自身とはまったく関係のない事情によってすべてが水泡に帰することも稀なことではない。そして、私たちが追い込み馬のような「後方一気の末脚」で一発逆転の夢を見たとしても、圧倒的多数のケースでそれは不発に終わるのである。その意味で、天賦の才を持たざる我々の人生は、追い込み馬に似たところがあるのかもしれない。

 だからこそ、我々は追い込み馬に自らの思いを託す。追い込みが不発に終われば呆然とし、惜しくも届かず惜敗すれば悔しがり、そして見事に追い込みを決めた時には、自らに果たし得ない夢を体現したドラマに酔う。ファンの逃げ馬に対する気持ちを憧れとするならば、追い込み馬に対する気持ちは共感に近いものがあるのではないだろうか。

 追い込みとは、その極端なレースぶりゆえに分かりやすく、かつファンも多い戦法である。その作戦自体が持つ非合理性、不安定さゆえに現代競馬における存在感は薄まっているが、追い込み馬の絶対数が少なくなっているからこそ、あくまでも追い込みを貫く馬の印象度は、より強固なものとして私たちに刻みつけられている。ファンに追い込み、そして競馬への思い入れがある限り、ナリタタイシンの鬼脚もまた、後世に語り継がれてゆくことだろう。

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