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ナリタタイシン列伝~鬼脚、閃光のように~

『目覚める刃』

 そんなナリタタイシンは、千両賞2着の後、連闘でラジオたんぱ杯3歳S(Glll)に出走することになった。当時のラジオたんぱ杯3歳Sは、翌年のクラシックとの関連性も浅くない年末の3歳重賞だったが、ナリタタイシンは、そんな重要なレースに、それも1勝馬の身で格上挑戦することになった。

 ナリタタイシンにとって、この日は初めての重賞挑戦であり、2000mも初めての距離と、厳しい条件ばかりが重なっているように思われた。しかし、大久保師は、自分が見込んだナリタタイシンの実力が重賞でも必ず通用するものと信じていた。

 ラジオたんぱ杯3歳S当日のナリタタイシンは、単勝1630円で5番人気となった。これを不人気ととるか、それとも予想以上の人気ととるかは、人によるだろう。ちなみに、1番人気は、大物持ち込み馬として評判になっていたトーヨーリファールだった。

 この日のレースに臨んだ清水騎手の騎乗は、それまでと変わらないものだった。・・・というより、むしろそれまで以上に徹底したものだった。第1コーナーでのナリタタイシンの位置は、12頭だての12番目だったのである。それまでの清水騎手の後方待機策は、せいぜい中団よりやや後方だったが、この日は後方にぽつんと置かれたかのようにレースを進めている。そして、この極端な位置取りこそ、ナリタタイシンの追い込みの刃が覚醒する前兆だった。

『閃光の刻』

 ナリタタイシンの思い切った位置取りをよそに、レースの方は1番人気トーヨーリファールが果敢に先頭に立っていた。だが、直線に入ってからの動きには切れがなく、一杯になった彼に後続が次々と襲いかかる。そして、中団からのまくりを見せた2番人気のマルカツオウジャが先頭を奪うと、一時はそのまま押し切るかに見えた。

 しかし、勝利を半ば手中に収めたかに見えたマルカツオウジャの背後には、馬群の中から迫りくるさらなる旋風があった。・・・それが、最後方から鋭い末脚を爆発させたナリタタイシンだった。

 前半は最後方待機策をとっていたナリタタイシンが進出を開始したのは、向こう正面のことだった。それでも第4コーナーでの彼は、まだ馬群の真ん中にいた。400mにも満たない阪神競馬場の直線で、ここから差し切るのは容易なことではない。

 しかし、そこからナリタタイシンが繰り出した切れ味は、3歳馬の常識を超えるものだった。マルカツオウジャの中団からのまくりもこの日の展開にうまくはまっていたが、ナリタタイシンが繰り出した末脚は、マルカツオウジャのそれをはるかに凌いでいた。

 ゴール直前でマルカツオウジャをかわしたナリタタイシンは、そのまま半馬身をつけてゴールした。

「今日は楽勝。楽な手応えで坂を突き抜けてくるんだから、本当に強い馬だよ・・・」

 レースの後、清水騎手はそう語った。強烈な末脚一閃、ナリタタイシンの重賞初挑戦は、ファンに対して彼の可能性を現実のものとして見せつけ、潜在能力を存分に思い知らせるものだった。

 とはいえ、ナリタタイシンには表舞台での実績が実質的に1戦しかないことも事実だった。翌日の中山競馬場では、関西馬ながら関東遠征でホープフルS(OP)に出走したウイニングチケットが、大観衆を唸らせる豪脚で差し切った。いずれも末脚勝負の関西馬という点で共通していたナリタタイシンとウイニングチケットだが、当時の両者の評価を比べると、重賞未勝利のウイニングチケットの方が、ナリタタイシンよりもかなり高かった。さらに、関西の他の有力馬として、もみじS(OP)、デイリー杯3歳S(Gll)を連続レコードで制し、朝日杯3歳S(Gl)では2着だったビワハヤヒデもいた。ナリタタイシンへの期待は、その2頭に比べるとかなり劣ったものにすぎない。・・・後に1993年クラシック戦線で「平成新三強」と並び称される3頭は、まだそれぞれ別の戦場で、やがて来る戦いの時を待っていた。

『宿命の楔』

 ナリタタイシンは、ラジオたんぱ杯3歳Sの後も休むことなく調整を続け、シンザン記念(Glll)から始動した。このレースの名前の由来は、言うまでもなく「ナタの斬れ味」と呼ばれた三冠馬の名によっている。

 もっとも、その名前とは裏腹に、1967年に創設されたシンザン記念の勝ち馬からは、クラシック馬が1頭も出ていなかった。クラシックの本命級の馬が休養する時期に行なわれてきたという間の悪さもあって、クラシックを本気で目指す有力馬の出走は少ない。この年もビワハヤヒデ、ウイニングチケットという当時「世代の両雄」と呼び声が高かった2頭の出走はなかった。

 そんな中で出走馬の中で唯一の重賞勝ち馬として出走したナリタタイシンだったが、ファンは前走をフロック視していたのか、前走で破ったマルカツオウジャ、新馬戦を勝ったばかりのマイシンザンに遅れをとる3番人気にとどまった。

 そして、この日も直線で鋭い末脚を見せたナリタタイシンだったが、スローペースの先行策がはまったアンバーライオンを半馬身捕らえ切れず、2着に敗れた。

「追ってよく伸びてくれた。今後が楽しみだね」

と話したのは、清水騎手である。彼は1974年にナニワライト、83年にメジロモンスニーでこのレースを勝っているが、ナニワライトは大成することなく、メジロモンスニーも皐月賞、日本ダービーともミスターシービーの2着に敗れてGl(級)レースを勝つことはできなかった。この日敗れたナリタタイシンだったが、その手応えは、メジロモンスニーにも決して引けを取らないものだった。「シンザン記念勝ち馬にクラシック馬なし」というジンクス・・・2002年にタニノギムレットが日本ダービーを勝つまで続いた巡り合わせを考えると、勝てなかったことも悲観すべきことではないのかもしれない。清水騎手は、ナリタタイシンのクラシック戦線にどのような展望を抱いていたことだろうか。

 しかし、清水騎手がクラシック戦線・・・というよりシンザン記念以降、ナリタタイシンの手綱を取ることはなかった。清水騎手はシンザン記念を最後にナリタタイシンから降板することになり、次走の弥生賞(Gll)からは、武豊騎手が騎乗することになったのである。

『分かたれた道』

 それまでナリタタイシンの7戦のうち5戦に騎乗してきた清水騎手は、先行では持ち味を生かせないナリタタイシンに折り合いをつけることを教え、追い込みの競馬を身につけさせてきた。気性も穏やかとは言い難いナリタタイシンにこうした競馬をさせることは、決して易しいことではない。それでも清水騎手は、その仕事を成し遂げ、清水騎手が騎乗した5戦すべてでナリタタイシンは人気を上回る成績を収め、連対率も10割という結果を残してきた。

 しかし、清水騎手は下ろされた。シンザン記念の敗戦の責任を問われたというよりは、クラシックに向けた布石という色彩が強い乗り替わりだが、いずれにしても、これは勝負の世界のあまりにも厳しい掟だった。

 清水騎手に替わるナリタタイシンの主戦騎手に指名された武騎手は、当時は既に説明不要のトップジョッキーの地位を築いていたが、この年はそれまでこれといった騎乗馬がおらず、シンザン記念ではマルカツオウジャに騎乗していた。そんな武騎手が、今度は自分の父親に近い年齢の騎手から、それまでライバルだった馬のバトンを渡された。・・・武騎手が選んだのは、清水騎手が彼に託した馬の最大の武器・・・追い込みを徹底し、純化させる形で戦い続けることだった。

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