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エアシャカール列伝~みんな夢でありました~

『名誉を取り戻すために』

 エアシャカールの競走馬生活が、栄光から凋落と切り替わる運命の日となったジャパンCの後、エアシャカールは有馬記念でのテイエムオペラオーらとの再戦をあきらめ、休養に入ることになった。エアシャカールの敗因ははっきりしなかったが、夏も含めてデビュー以来走り続けたことによる、これまでの歴戦の疲労が原因だろうと推測された。もしそうだとしたら、ジャパンCからさらに中3週で有馬記念に進んだとしても、結果が変わることはないだろう。ならば、ここはいったん立て直しを図る方が得策ではないか。

 エアシャカールの2000年は屈辱とともに暮れざるを得なかったが、幸いテイエムオペラオー、メイショウドトウという古馬の両雄は、有馬記念もワンツーフィニッシュを決めながら、翌2001年も現役生活を続けることになった。エアシャカールには、彼らを倒すことによる名誉挽回の機会が残されたのである。

 エアシャカールが再起への出発点に選んだ産経大阪杯(Gll)には、テイエムオペラオーが有馬記念以来の復帰戦として出走してきた。2000年の古馬中長距離戦線で不敗の8連勝を飾り、Gl5勝を含めた完全制覇を果たしたテイエムオペラオーこそは競馬界に君臨する「世紀末覇王」であり、そのテイエムオペラオーを倒すことが、エアシャカールの名誉を回復し、ファンに己を新世紀を担う者として認知させる最善にして唯一の方法だった。

 ただ、大阪杯でのエアシャカールの鞍上から、武騎手の姿は消えていた。前年に既に日本から世界へと活動の軸足を移した武騎手は、海外に滞在することが多くなり、この日も日本に帰らないことから、エアシャカールの鞍上も、蛯名正義騎手に譲ったのである。テン乗りの蛯名騎手は、乗り方の難しいこの馬をまず手の内に入れることから始めなければならなかった。

『ただ一度の好機』

 この日、ファンの支持によって圧倒的1番人気を背負ったのは、当然ながらテイエムオペラオーだった。ファンはもちろんだが、騎手たちはその人気以上にテイエムオペラオーを意識せずにはいられない。テイエムオペラオーを倒さずして勝利がない以上、彼らの作戦は「いかにしてオペラオーに勝つか」というものとならざるを得ない。そして、蛯名騎手もその例外ではなかった。

 蛯名騎手が選んだのは、かつてエアシャカールが栄光を勝ち取った時の作戦・・・最後方待機からのロングスパートだった。まだエアシャカールを手の内に入れていない蛯名騎手が菊花賞の騎乗をすることは難しい。テイエムオペラオーという絶対的な強敵を倒すためには、エアシャカールの力を出し切れる作戦しかなかった。気にかかるのはササり癖だったが、これは休養中の精神面の成長による改善を期するしかない。博打を打たなければ、勝てる相手ではなかった。

 ただ、目的は同じでも、方法論が異なる騎手は当然存在する。同じように打倒テイエムオペラオーを目指しながら、異なる方法論を採ったのが、アドマイヤボスに騎乗する後藤浩輝騎手であり、この日のレースを動かしたのは、蛯名騎手ではなく後藤騎手だった。この日もいつものように先行して好位につけ、自分のペースで競馬を進めているテイエムオペラオーの姿を目にした後藤騎手は、とっさに危険を察知した。テイエムオペラオーに自分の競馬をさせてはいけない。・・・そして彼は、テイエムオペラオーを後ろでマークしていたアドマイヤボスにゴーサインを出した。テイエムオペラオーを惑わせ、封じ込めるために。

 後藤騎手は第3コーナー過ぎから、アドマイヤボスの馬体を外からテイエムオペラオーと併せにいった。それも、ただ併せるだけではない。「オペラオーより半馬身前に出た状態で馬体を併せる」ことで、テイエムオペラオーと和田竜二騎手が簡単には抜け出せない形を作り、彼らの焦りを引き出さなければならない。

 いくつかの幸運が、彼らの捨て身の戦法の後押しをした。アドマイヤボスの予期せぬ、それも捨て身の仕掛けにテイエムオペラオーと和田騎手が焦ったのは、まさに後藤騎手の作戦どおりだった。もっとも、後藤騎手の意図とは違い、テイエムオペラオーの前に馬の壁はできなかったが、少なくともこの日はそれで十分だった。前年はどんなに苦しい位置、馬の壁に閉じ込められた状態からでも、直線に入ると凄まじい勝負根性で抜け出してきたテイエムオペラオーだったが、この日はここから抜け出すことができない。様子が前年とは違う。何かがおかしい。

 もっとも、テイエムオペラオーを「潰しにいった」形のアドマイヤボスも、そこからさらにテイエムオペラオーを突き放す余力はなかった。テイエムオペラオーとアドマイヤボスは、互いを突き放せないまま、果て無き泥仕合に引き込まれ、末脚を鈍らせていった。・・・最後方待機策から一気の差し切りを狙っていたエアシャカールにとって、千載一遇のチャンスが訪れようとしていた。

『止められぬ凋落』

 エアシャカールは、直線に入って飛んできた。びっしりと叩き合う2頭に外から並びかけると、彼らにはもう抵抗する力さえ残されていなかった。そして、エアシャカールが前に出た。ジャパンCの復讐は、ここに成るはずだった。失われた二冠馬、「準三冠馬」としての栄光も、これで取り戻すことができる・・・。

 だが、そんな夢を一瞬にして奪い去ったのは、エアシャカールのさらに外から襲いかかる、芦毛といってもまだ中途半端な白さしかないもう1頭の刺客だった。トーホウドリーム、9番人気。彼はエアシャカールらと同世代の馬ではあったが、菊花賞時も500万下をうろうろしており、当然クラシックとは無縁の2000年を過ごした。そんな馬が、徹底したテイエムオペラオーのマークを貫いてついには先頭に立ったエアシャカールを、その後ろからあっさりと差し切ってしまったのである。蛯名騎手と二冠馬に、格下の重賞未勝利馬で完全な出し抜けを食らわせたのは、笠松の名手・安藤勝己騎手だった。

 1着、トーホウドリーム。2着、エアシャカール。テイエムオペラオーが4着に敗れたこのレースでもエアシャカールは、テイエムオペラオーを差していったん先頭に立ったものの、多くのファンにその瞬間まで馬名すら認識されていなかったであろうトーホウドリームの一世一代の末脚に屈し、その名を成さしめてしまった。それもまた競馬とはいえ、エアシャカールにとってはあまりにも残酷な結末だった。

 その後、天皇賞・春にも出走したエアシャカールは、産経大阪杯で破ったテイエムオペラオーの復活劇の前になすすべもないまま7着に沈んだ。その後のエアシャカールは、「宝塚記念(Gl)と両にらみ」と称して帝王賞(統一Gl)に登録したり、結局宝塚記念(Gl)への出走を決めたかと思うと、今度は「宝塚記念後の状態次第」ということでアーリントンミリオン(国際Gl)に登録したり、とめまぐるしく変わるローテーションで話題を振りまいた。もっとも、その宝塚記念で5着に敗退したことで、米国遠征もほとんど現実化しないうちに立ち消えになった。

 勝ち続けることで、ファンの胸に夢と記憶を刻み続けることは、本来クラシック馬の責務である。しかし、エアシャカールはその責務をなかなか果たすことができない。そんな彼を「準三冠馬」と呼ぶ人は、いつしかほとんどいなくなっていった。そればかりではなく、人々が彼を「二冠馬」と呼ぶ場合ですら、その言葉には言外に、「二冠馬なのに勝てない」ことへの皮肉と嘲笑が込められるようになっていった・・・。

『寂しい秋』

 その後に脚部不安を発症したエアシャカールは、2001年秋を全休することになった。もっとも、天皇賞・春、宝塚記念で見せ場なく敗れた彼を惜しむ声は、この時にはもうかなり薄れていた。

 エアシャカールのいない天皇賞・秋(Gl)で、産経大阪杯のような展開の利ではなく、正真正銘の実力勝負でテイエムオペラオーとの一騎打ちに持ち込み、そしてうち負かしたのは、エアシャカールと同世代のアグネスデジタルだった。外国産馬であるがゆえに、そしてダービーの外国産馬への開放が2001年からだったがゆえに、クラシックからは締め出されたまま3歳時を終えたアグネスデジタルが、2000年に開放されたばかりの天皇賞・秋に出走し、日本の競走馬の頂点に立つ。それは、競馬界の時代の変革を告げる象徴的な「事件」といえた。

 その後、2001年秋の中長距離戦線は「エアシャカール抜き」のまま、何の差しさわりもなく続いていった。ジャパンCではジャングルポケット、有馬記念ではマンハッタンカフェというエアシャカールより1歳下の世代の馬たちが勝ち、さらにかつてエアシャカールが夢を馳せた世界の壁までも、日本馬が香港の国際Glを1日で3連勝する劇的な形で破られた。その快挙の主役となった3頭のうちの2頭は、アグネスデジタル、エイシンプレストンという、エアシャカールと同世代でありながらクラシック戦線への出走権を持たなかった外国産馬たちだった。

 エアシャカールら内国産クラシック馬たちの惨状と、アグネスデジタルらクラシックから締め出された最後の外国産馬たちの栄光。そのあまりにも対象的なコントラストは、エアシャカールらの勝利の価値を無惨にうち砕いただけにとどまらない。これらの現実は、日本競馬がもはや外国産馬抜きでは語れなくなっていること、そしてクラシック戦線さえも、旧来のような枠組みでは維持できなくなっていることを、何よりも雄弁に物語っていた。

 ・・・幸い、中央競馬ではこの時既に、そうした時代の流れに合わせ、天皇賞、クラシックの外国産馬への開放を進めつつあった。2001年からは日本ダービーが外国産馬に部分開放され、エアシャカール世代が戦った2000年のクラシック戦線は、出走資格が内国産馬に完全に限定されていた最後の年となった。

 日本競馬の最高峰としてのクラシック戦線は、内国産馬のみによる最強馬決定戦・・・という、いまや幻影となった原型から解き放たれた。外国産馬を取り込むことによって、真の最強馬決定戦へと生まれ変わったクラシックの歴史は、新たな段階へと足を踏み入れた。だが、それは同時に、エアシャカールたちが戦った内国産馬のみによるクラシックは、もはや最強馬決定戦たり得ないという事実が公式に認められたことも意味していた。エアシャカール自身の栄光だけでなく、古典的な意味での「クラシック三冠」の幻影も終焉を迎えた。時代に取り残されたエアシャカールたちの居場所は、この時既に、なくなっていたのかもしれない。

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